#21-1. 『エイリアン・ベッドフェロウズ』発刊!

cpamonthly2004-05-12


巽孝之 春休み後半は、例年だったら八ヶ岳の別荘および書庫開きの季節なんですが、今年は3月20日(土)に小谷さんの『エイリアン・ベッドフェロウズ』出版記念パーティが西麻布の「カラーズ」にて盛大に開かれたうえに、そのあと、ふたりとも3月30日から4月5日までノースカロライナ出張が入ったので、けっこう過密な春休みになってしまいましたね。

小谷真理 あのパーティには萩尾望都さんや夢枕獏さん、菊池秀行さん、出渕裕さん、佐藤嗣麻子さん、それに宝野アリカさんや茅野裕城子さん、笙野頼子さんや何と富士川義之先生にまでお出ましいただいたうえに、二次会を経て三次会の「チャイナ・ウェスト」まで大勢で流れ、ほんとに楽しい、夢のような一夜でした。美しい花束下さったかたがた、ほんとうにありがとうございます! 
 さて、ここんとこ映画『イノセンス』にはとことんハマってるんですが、『エイリアン・ベッドフェロウズ』には、今から13年前、当時わたしなりに書いたガイノイド論を収録しました。今回の出版にあわせて、多少手は入れましたが、だいたい当時のままの文章になっています。おかげさまで、斎藤環さんたちのとてもリキの入った書評が出たおかげで(笑)、たちまち重版。うれしい限りでございます。

 小谷さんの親友・出渕裕さんといえば、先日、5月6日に、『ラーゼフォン』では音楽のみならず声優もつとめた橋本一子さんが青山のマンダラで行ったライヴに招待してくれましたね。先月、4月21日に渋谷のエッグマンで行われたビル・ブルッフォードとミケル・ボルストラップのデュオに続く感動的なステージでした。正直なところ、CDはほとんど持っているくせに、橋本一子さん自身のライヴは初めてだったのですが、マイルス風ユニットによるライヴはこれまでのどのアルバムからも想像できない実験的な即興演奏。同行した漫画家のとり・みき氏によれば「まあ、むかしは女山下洋輔と呼ばれたこともあるから」。打ち上げでの彼女は、ディックやバラード、スティーヴ・エリクソンらへの愛を切々と語っていました。このモチーフはアルバムでいうと「ファンタスマゴリア」かな。
 ちなみに今年は小谷さんはあと二冊、矢継ぎ早に出すと聞いてますけど、そのうちの一冊分のネタが、今回はノースカロライナ大学チャペルヒル校(UNC)での「ゴスロリ」講演で結実したわけですね。チャペルヒルデューク大学のあるダーラムも、われわれにとっては初めての町だったんだけど、ノースカロライナといえばかれこれ十年以上前の1993年の夏、フルブライトのプログラムでアメリカ滞在していた時、サイバーパンク批評誌<SF Eye>編集長スティーヴ・ブラウンを訪ねて、アッシュビルに泊まった時のことをなつかしく思い出しました。あのあたりは、今回のアカデミー賞でも「21 世紀の『風と共に去りぬ』」なんて話題になってる『コールド・マウンテン』ずばりそのものの風景なんですね。

#21-2.ノース・カロライナの春休み

小谷 『コールド・マウンテン』は、こないだ六本木ヒルズでようやく観ました。水曜日で1000円だからっていうので行ったら、最前列しかあいてなくて、首を90度に屈曲して見てたら、しばらくもとにもどらなかった。苦しかった。 
 でも、内容が「女子供老人のユートピアと、種馬化されるオトコ」というすごい方角へつきすすんでしまい……いや〜、戦争って、結局しょうもない男を消すための、人類の知恵なのかも……という雰囲気すらただよっていて、なんだか笑っちゃいましたよ。主演の男性ジュード・ロウというのが、そういう悲哀が実によく似合う俳優でね。この構図は案外シェリ・テッパーの『女の国の門』そのものなのかもしれないと思いましたね。シェリ・テッパーのアイディアってアメリカの現実感をよく反映しているなって思います。
 ニコール・キッドマンがまた、こういう内容に実によく似合う女優さんなのね。最初は、な〜んにもできないウブで無能な箱入り娘という感じだったのに、いやー、あれよあれよという間にたくましなっていく。そのかっこいいこと! 『プラクティカル・マジック』もそうだったけど、なんだか女と女の世の中に住んでいるのが一番あっている感じ。『プラクティカル・マジック』も、完全女系家族──ティプリーの「男たちの知らない女」のような──のお話ですが、ティプトリーと違って、女性のすてきなライフスタイルがけっこう細かく描かれていて、めちゃくちゃかわいくって、大好きです。夜中に女四人でマルガリータ飲むとことかね(笑)。
 あ、それで今回の渡米は、教授のデュークの仕事の最終調整というので、わたしは息抜きのつもりだったんだけど。

 そう、デューク大学編集局のレナルズ・スミスと打ち合わせを進めるのが最大の目的で、カロライナ・インに泊まってたんですね。チャペルヒルでは運良く、マーク・トウェイン協会では一緒に編集委員やってる立教大学後藤和彦氏や、ゼミ七期生・深瀬有希子君の親友でプログレで博士論文書いてるという音楽研究家・川本聡胤夫妻にも会えたのはうれしかった。ところが、昨年は三田の訪問教授で現在は UNC助教授の日本学者マーク・ドリスコルが、いきなり「資金を確保したから、3月31日にマリに講演頼む」って。マークは学生思いの、とってもいい先生やってるみたいですね、授業では『エヴァンゲリオン』やアリ・プロジェクトのライヴ・ビデオ見せたりしてるらしい。講演の司会もうまかったなあ。
 UNCの日本関係の情報源は少ないらしく、朝日新聞ひとつ入っていないみたいだから、マークのサブカル授業と小谷さんのゴスロリ講義で、アメリカ南部の若者のポストモダン日本像はほぼ決定したというか。

小谷 まさか(笑)。いやわたしが驚いたのは、学生が案外日本のポツプカルチヤーに充分通じているっていう手応えでした。見せた映像の中では、宝塚への関心が高いのはわかるんですが、ヴィジュアル系ロックバンドがあれほどウケてるとは思わなかったし。アニメでも『TAMALA2010』に狂って、けっこう詳しい男の子もいたし。

 完全なキャラ萌えなのね。トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』も読まずに夢中になってたから。
 そういえば、マークのパートナーでデューク大学に勤務する文化人類学者ダイアン・ネルソンもずいぶん面倒みてくれたけど、小谷さんはデュークのキャンパスでは日本でもやったことないような、かなり特殊な経験をしたでしょう。

#21-3.夜を取り戻せ!

小谷 あれねえ〜。エイプリル・フール、つまり4月1日夕刻に、デューク大学で女性を中心としたデモがあったんで、ダイアンに誘われて参加してきたんですよ。ダイアンは、文化人類学の領域ではグアテマラ研究でしられているヒトですが、実は熱烈なサイバーパンク・ファン。昨年、アミタヴ・ゴーシュ『カルカッタ染色体』を、ジェンダー&ポスコロ理論で分析した名論文を学術誌<SF Studies>に発表してるほど。あれはハラウェイ学派(笑)としては、お手本のようなきっちりした論考で、スタイリツシュな部分もふくめて、すごくよかった。サイバーパンクが、おしゃれ系だという手堅い見本ですね(笑)
 その彼女が、デューク大学では年次イベントであるTAKE BACK THE NIGHTムーヴメントの一環のデモがあるから、一緒に行こう、と言ってくれたんですよ。「夜を取り戻せ」運動とでもいうのかな。レイプ事件が頻発する校内で、女性でも夜安心して歩けるような世界にしようという趣旨で、これは年一回、スローガンをさけびながらイースト・キャンパスからウェスト・キャンパスまで練り歩くという超たのしい企画なのね。60年代から続けられているそうです。
 デューク大学は、南部では高学費で知られる超エリート名門校なのですが、今年に入ってからなんと三件もレイプ事件があり、女子学生の怒りは爆発! そこで今年は女性教員も総出で支援するということで、かなりおおがかりな企画になったというわけですね。
 名門校だし保守的な学校だから3-40人かなと思って出かけたのですが、パトカーにエスコートされた部隊はだんだんふくれあがって、最終的には200人以上になり、テレビカメラも出動。ダイアンもCNNに取材されてました。
 デモ隊にはあらかじめ、スローガンを書いたビラが配られて、それを詠唱しながら行進するというものでした。こんな内容です。

Women / United /Will Never Be Defeated
2-4-6-8 We Won't Stand For Any Rape!
Women Unite / Take Back The Night
Yes Means Yes / No Means No / Whatever I Wear / Wherever I Go!
Out of the dorms /Into the Streets / We Won't Be Raped/ We Won't Be Beat
Hey Hey / Ho Ho / All Rape / Has Got to Go!
Join Together / Free Our Lives / We Will Not / Be Victimized
We Have the Power / We Have the Right / The Streets Are Ours / Take Back The Night
We Are Women / We Are Strong / Violence Against Us / Has Lived Too Long
Take Back the Night / The Time is Near / We Will Not Be / Controlled by Fear
Sexists / Rapists / Anti-Gay / Don't Take Our Night Away!!

 寒い晩でしたが、行進自体はけっこうたのしく、なかなか「やったね、いい感じじゃん」とか思っていたのですが、実はそのあと、地獄を見ることに!
 行進が終わって記念講堂の前に集結して、それで終わりかと思っていたら、芝生のうえに座らされ、以後エンエンと、大告白大会を聞くことになりました。で、その話が、すごかった。陰惨な内容もさることながら、やっぱり生の体験をそのまま語ってくださるわけですから、その現場に直接たちあうようなつらさがあるわけです。
 心の準備ができてなかったワタシは、そんなわけで、十数件聞いただけ気分が悪くなってきて途中でギブアップしてしまったのですが、とくに妹さんを殺された女性の叫びは、思い出しても落ち込んでしまうほどでした。
 ただ、それにしても、こんなにレイプの話があるものなのかと疑問に感じたわたしは、ダイアンに聞いてみると、「アメリカで四人にひとりはレイプ体験があるのよ」との返事でしたね。とくに大学ではアメフトやバスケットなどスポーツ競技会があると、事件発生率はあがり、今年のデューク大学で起きた事件のうち一件は、まさにその典型で、学生寮で静かに勉強していた女子学生も被害にあってしまったとか。女子学生の怒りが炸裂するにも道理ですよね。
 日本では、あんまりマイクで自己体験を告白するという方法論はお目にかかったことないので、それがこれほど盛大に行われるという事実にもすごく驚かされましたね。ともかく、女子学生たちの証言があまりに衝撃的で、そのこと自体とぶつかって、どうにも言語化できない苦しみを味わったわたしは、帰国後高橋哲哉氏の『証言のポリティクス』(未来社)と乙一に一時逃避し、耽溺したほど。「日常性を破壊される、超越的な衝撃」をどう扱うのかという問題に改めて直面した、というわけです。自分自身のテクハラ事件でも考えさせられたけど、でも桁違いだと思った。

 わたしは一応男性なので、このデモには同行できなかったんですね。ダイアンはデューク大学イースト・キャンパスにあるギルバート・アダムス学生寮で舎監みたいなことをやっていて、そこにマークもころがりこんでるので、デモのあいだは、彼が借りてきてくれたソフィア・コッポラアカデミー賞脚本賞受賞作「ロスト・イン・トランスレーション」のDVD観てました。彼女の映画では第一作のほうが好きだけど、このDVDは何と言っても特典映像がすごい。そっちのほうが物語よりおもしろいくらい。翌日4月2日には、この寮の一室で、歓迎会をやってもらいましたよね。

小谷 マークとダイアンが、いっしょうけんめいカリフォルニア巻を握ってくれたのにはびっくり。このパーティでも、デモのことはすごい話題だったのですが、それでは最近の日本での性犯罪はなにかと質問され、「埼京線になぜ女性専用車両ができたのか」という話をしていたら、同席していた「囲み+痴漢ネット」犯罪事情をご存じない関西方面の水島一憲氏(大阪経済大学所属でデューク大学訪問教授、ネグリ&ハート『帝国』の訳者のおひとり)が顔面蒼白になって怒りに震えておられたのが印象的でした。性犯罪の深刻さとはいったいなんなのかってことは、今後ちゃんと考えようと決意しました。

 わたしは水島さんとは、音楽の話をしてたなあ。日本のプログレ・バンドの最新鋭Sixthnorthのこととか、ずいぶん詳しい方でしたね。

#21-4.ドキュメンタリー映画祭のマイケル・ムーア

小谷 最終日はこのデモの衝撃があまりにはげしかったので、デューク大学編集部のレナルズ・スミス夫妻のお誘いもあり、ちょうどダーラムで開催されていたドキュメンタリー・フィルム・フェスティバルで息抜きしよっかと思ったら、工場労働者の問題やら水問題やら現代社会の暗黒面を暴いた映像二本にブチ当たる始末。いやもう現実は見たくないよ〜っていうか、だからわたしはファンタジストなのか(笑)
 『バカでマヌケなアメリカ白人』のマイケル・ムーア監督のパネルが唯一の救いって感じでしたね。「おれたちのアメリカは、もう終わっているぜ」と語る監督は絶好調。
てなわけで、ぐうぜん路上で激写したマイケルの写真です。彼って体型からしてオタクでしょ。ピージャクと兄弟みたいでしょ。話聞きながら、ドキュメンタリーって、かなり深刻でシリアスなスタイルを使っているものが多いけど、その約束事に挑戦するっていうのは、どういうことなのかってことを考えさせられたなあ。ムーアの現実のつかみ方は、「オレは、アメリカをこう見てるぞ」という主張を通して、アメリカの現実感からアメリカの現実を逆に映しだしていくやり方に見えて、遊戯性があっておもしろかったし。いい意味でポストモダンを経由してきたオタクの知恵がみなぎつているんだと思う。そういえば、彼、わたしが外でばったり出くわしたとき、あわててカメラを出してかまえたら、怒るかなと思ったんだけど、別にそうでもなかったな。しかも、もたもたデジカメの電池を変えるのも、なぜか待っててくれて。なんだかすごくうれしかった。

 あれは4月3日の土曜日の夕方でしたね。マークの寛大なる手配により運良くチケットを入手できたんで、ダイナンと一緒にマイケル・ムーアの出るパネル「浮動票としてのドキュメンタリー」を傍聴することができました。デューク大学政治学教授デイヴィッド・パレスが司会を務める中で、ジョージ・バトラーら実力派映画監督たちと席を並べたムーアは「必ずしもブッシュ批判ばかりを先行させたいわけではなく、あくまで楽しめる映画を作りたいだけだ」と強調し、殺し文句が「教育ってのは、そもそもテストのためじゃない、人生のためにこそあるべきものだ」。
 いずれにしても、こんな惨憺たる時代に、桐野夏生の『OUT』がエドガー賞候補になったのは、フェミニズム的にも興味深いんじゃない? 惜しくも受賞は逃したけど、あれって、女たちが「男の死体を切り刻むのは抵抗ないけど、女の死体を切り刻むのはおぞましい」って感情がじつによく表現されてたと思う。年末のサンディエゴでラリイ・マキャフリイ行きつけのバーで飲んだ時、シンダ・グレゴリーが「『OUT』というのを読んだけど素晴らしい」と言っていたので、おおアメリカでなかなか広く読まれているじゃないか、と実感したものですよ。わたしはテレビドラマ化のほうは、いまいちノレなかったんだけども。

小谷 桐野さんの成功は、今の日本のエンターテインメント作品がいかに洗練されているかの証左ですね。洗練とくれば、女性です(笑)。垢抜けといえば、それも女性だと思うな。あとは、日本のエンターテインメント界で、女性クリエーターか、ちゃんと予算がとれるようになれば、もっとすごいことになるんじゃないかな (笑)
映画といえば、最近では巽ゼミ七期OGの西川朝子ちゃんが製作デスクを務め、是枝裕和監督が実話をもとにした『誰も知らない』は印象に残る作品でしたね。今年のカンヌ国際映画祭では、『イノセンス』とともにコンペ出品が叶ったとか。

#21-5. 是枝裕和最新作『誰も知らない』はファンタジーか?

 小谷さんはこのところ荒戸源次郎監督の『赤目四十八瀧心中未遂』も是枝監督の『誰も知らない』もファンタジーとして堪能しちゃったみたいですねえ。製作者側はみんなハードコア・リアリズム映画と信じてるはずだけど、たしかに『誰も知らない』は、いささか男性関係にだらしのないお母さんのせいで最初から戸籍なしで育った子どもの兄弟姉妹四人が主人公だから、一種の妖精ものにも見えるかもしれない。途中でお母さんはまた新しい恋人を作って出ていって、戸籍のない子供たち四人だけで凄絶なサバイバルが展開される。絶海の孤島ならぬ都市のどまんなかでくりひろげられるロビンソン・クルーソー物語というか。
 誰も知らない子どもたちというのは、いわば透明人間なんですね。アメリカなら「見えない人間」といえば黒人をはじめとする人種的少数派のことになるけど、日本ではいまや、まったくべつの家族像を中心に新たな意義を帯びるようになっている。しかも、是枝監督十八番のドキュメンタリー・タッチで描かれれば描かれるほど、かえって幻想性が増していく構成は、たしかに特徴的だったと思う。

小谷赤目四十八瀧心中未遂』は、正真正銘のファンタジーです。現実があんなに美しいわけがない(笑)。それに、わたしとって、ディープ関西は、ファンタジー世界だもんね。『誰も知らない』は、子供自体が、ファンタジー世界を生きているから、子供たちをそのままリアルにとれば、どこかでファンタスティックなものが浮かび上がってくるのだと思う。『誰も知らない』は、ずーっとあとにひく映画で、なんていうのかな、断片的な光景があとから次々とよみがえってきて、たまらなくなる。自分だったら、どうやって生きていくんだろうか。まるで、むかしの『十五少年漂流記』の都会版ですね。『蠅の王』とか『バトル・ロワイヤル』のようにはならないんだけど。
 いちばん印象的だったのは、窓にカップラーメンの殻をならべて、それを鉢代わりに雑草を育てていくシーン。そんな子供たちの光景を映し取る、あざといカメラワーク。忘れられないですね。
 それにしても、リアルとファンタジーが反転して見えるのは、手法のせいなのか、扱っている素材のせいなのか、なかなかスリリングな興奮がありました。

 マイケル・ムーアだって、アカデミー賞受賞に輝いた『ボウリング・フォー・コロンバイン』では、ドキュメンタリー・タッチでさんざん法螺話(ホークス)をかまして、ホントのようなウソのような映像を構築していますから。たしかに9.11同時多発テロからこのかた、現実を現実として映像化する手法自体の物語学もまた、変質し始めたのかもしれません。

5/12/2004