#26-2.紀伊國屋書店シンポジウム「人類にとって文学とは何か?」

 いやはやごくろうさま!
  でも、これだけ一気にまとめてもらわないと、次に進めないからねぇ。

それで、最新の話題としては、CPAでも宣伝してもらった4月29日(日曜日)の岩波書店『文学』編集部の協賛による紀伊國屋書店創業80年記念シンポジウム 「人類にとって文学とは何か」について。
   

じつをいうと、この企画のアイデアが最初に出たのは、いまのカレンダーで言えば、きっかり一年前、昨年2006年6月に日本SF作家クラブの温泉旅行があって、いつもどおり小諸は島崎藤村ゆかりの温泉旅館・中棚荘に泊まったときなんですね。その夕食後に、小松左京さんが「人類にとって文学とは何か」というシンポジウムをやるのが念願だ、と宣言なさった。そうしたら、続く7月になって、たまたまわたしのところへ岩波書店『文学』編集部が、その時点から数えての来年つまり今年2007年の夏にSF特集号を出したい、という特集企画を持ち込んできた。どうもリス子も寄稿した2006年夏の『文学』ファンタジー特集号が売れたのがきっかけらしい。そこで、慶應義塾に毎週来てくれている紀伊國屋書店に話してみたら、岩波書店『文学』編集部と協力し合うのはまったく問題ない、ということでトントン拍子で話が進んでしまったわけです。
    それでも、パネリストには小松御大を筆頭に、『パラサイト・イヴ』で知られる瀬名秀明氏や、タフツ大学に移ったばかりのスーザン・J・ネイピア氏を迎えるという当初の予定にさしたる支障もなく、紀伊國屋サザンシアター紀伊國屋書店新宿南店7階)でのシンポジウムは観客250名あまりを集め、おかげさまで盛況に終わりました。

小谷 これタイトルがすごいですね、人類、ときて、文学、ですよ。
   

今時大上段な構え方? とも思うけど、実は中棚荘で行われた日本SF作家クラブの温泉合宿のとき、小松左京御大が、筒井康隆氏ほかのSF作家のかたたちに同じ質問して答えを迫っていたその場に、たまたま居合わせてましたから。人生の文学とはなにか、文学とは必要なのか、宇宙にとって文学とは何かっていうのは、小松御大にとっては、ほんとうに大切な、根源的な問題だったんですね。

 今回のシンポジウムは、企画実行のすべてに関わったのはいいんだけど、年末の時点で日程が決定した直後に、いつもはゴールデンウィークのさなかにやるSFセミナーとバッティングするのがわかって、けっこうヒヤヒヤしました。SFセミナー側には早い時期から情報公開して、若干の調整ができないかどうかも検討したんだけど、けっきょく並行企画としてやるしかなくて。それでも、フタを開けてみたら、シンポジウムのほうもお硬いテーマのわりにお客さんの入りもまずまずで、ちょっと一安心。セミナーのほうも例年通りと聞いています。つまり、今年は両者がバッティングしたことがケガの功名となって、潜在的なSFファンが想像以上に多いことがわかったわけですね。ゼミ生はもちろん、一昨年まで集中講義で教えていた九州の福岡女子大からも来てくれた院生がいて、感激しました。

小谷 おもしろかったですよ。とくにシンポ第一部は、文系・理系・海外の学者による文学の現状分析といったそろい踏みで迫力あるセッションでしたしね。 実質的な司会役の教授から始まって瀬名秀明さん、スーザン・ネイピアさんが、順に小松左京御大の著作をテーマにそれぞれ興味ある部分を引いて、自らの論旨を展開する、というやり方なんですが、がヴァラエティに富んでいて、それぞれに聞きごたえがあったし。あ、今回は小松御大はすべてのペーパーに言及していくコメンテーターという役回りですね。

 今回はテーマ「人類にとって文学とは何か」が壮大 すぎるので、いったいどうしようかと思ったんですが、アメリカ文学者としては、小松さんがこよなく愛するアメリカ南部作家フォークナーを、たぶん日本では初めて、きちんと比較してみようと思い立ったわけです。これまでにも、ふつうフォークナーといえば、傑作であり古典の呼び声も高い『響きと怒り』とか『八月の光』なのに、御大の場合はいったいどうして、どちらかというとマイナーで失敗作とすらみなされることのある『野生の棕櫚』なのか、ふしぎに思っていたので、そこを解明したかった。そのために、フォークナー初来日の映像とか、小松さんがちょうど20年まえの1987年、ヴァージニアまで行かれて、フォークナーの最愛の娘ジル・フォークナー・サマーズさんにインタビューしたときの映像とかをお見せした、というわけです。

小谷 続く瀬名氏も、御大のノンフィクション系の書き物から御大のクロスオーバーの知を、チェスタートンの指摘するアマチュアリズムと捉え、それを今日の科学をめぐる境界横断の方法論へとつなげてみせる手つきがあざやかでした。ゴリゴリのカトリック信者でミステリ作家チェスタートンがSF作家ウェルズと論争していたという下りも初耳でね。そんなことがあったのかと吃驚でした。しかも、現在、境界横断的な方法論が氏のお務めする大学の科学者たちの現場に持ち込まれて実践されている、というのだから、驚きです。専門主義で細分化される科学者の現場からクロスオーバーの知的実践へとすすめていこうとする瀬名氏のアプローチはいかにもSF的な方法論ですし、センス・オブ・ワンダーに満ちあふれてすると思いましたね。

 今回のシンポジウムの特徴は、夏に出る『文学』のSF特集号に採録されるとあって、全員が事前に原稿を用意したところなんですね。だから、わたしや瀬名さんの発表の最中にも、御大が随所にツッコミを入れてにぎやかだったこと。

小谷 スーザン・ネイピアさんは、『日本沈没』とP.D.ジェイムズ『人類の子どもたち』を比較検討しながらSF的方法論がいかに青少年の教育現場に必要とされるかを、語っていましたよね。聴衆もシーンとして聞き入っていた感じ。日本と英国の両作品がアポカリプティックな危機的状況をテーマとして扱い、そういう危機的な設定が用意されたとき古典文化へのアナクロニズムが浸出してくるのだと指摘する分析は、歴史の長い国において、このネオリベの時代に黙示録的な作品をどう読んだらいいのだろうという問いを迫ってくるようで、興奮しました。
   が、御大自身は聞き惚れてねちゃったみたいで、それがまたご愛敬(^^;)。 情け容赦なく、それにツッコミを入れる教授も、教育者って感じで…(^^;)

 あれは休憩の直前でしたからね、何か言わないと収拾がつかなかった、というか(笑)。

小谷 15分お休みして、いよいよ第二部が始まると、起きあがった小松左京御大が抱腹絶倒なツッコミをマイペースで開始しましたね。ふりまわされる若人、唖然とするスーザン、お茶目すぎる、御大。しかもまー、それが猥談なんだから物凄いというか(^^;)
   人類の文学にとって、なにが必要なんでしょう? というきわめて真面目な観客の質問にも、エンエン猥談を続ける、続ける。
   そんな巨匠のお姿を前に、秘書の乙部さんが「つまりね、ユーモアが必要ってことなんでしょ? そうでしょ、小松さん?」とフォローしてたのが、印象的でした。
   考えてみれば、星さんも筒井さんも小松さんも平井さんも光瀬さんも半村さんも、すぐれたSF作家はユーモアにしてもブラックユーモアにしても、絶望の底から生まれてくる笑いの本質をよく知っている人たちが多かったとおもいます。とくに最相葉月さんの入魂の伝記『星新一――一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年)を読むと、それがよくわかります。人を貶めず構造をついてガス抜きさせる。硬直する思考に対する反権力的なジョークは知的で心から楽しめたし、それをゆるすコミュニティの雰囲気が快く魅力的でしたね。一昔前の反権力的スタンスがばらけ複雑化している現在だけれど、今こそ硬直への特効薬――笑いのガス――はかなり必要とされるんじゃないか、と思わせるほど、巨匠の茶目っ気は健在だった……というところでしょうか。

  そうですね、司会者としては、あれだけみっちり打ち合わせしたのに小松さん、いったいこの予定外のツッコミとボケは何ですか? と呆気にとられる局面も多かったんですが、最終的には司会者とコメンテータのあいだの漫才みたいに受け取られたみたいで(笑)。