#30 グラウンド・ゼロでお茶を

グラウンド・ゼロでお茶を――九州講演旅行記


*編集部注:トルコライス店つる茶ん

text by Takayuki Tatsumi


2013年5月 2週目の週末は、四泊五日にわたる九州講演旅行となった。以下にざっとその概略を記すとーー

5月 9日(木曜日)朝10時半羽田発ANA249で飛ぶ。午後3時より講演「オバマ以後のリンカーン」西南学院大学(司会・西南学院大学教授・宮本敬子氏) 300名参集。ファカルティとの懇親会@ジョルジュマルソー。宿泊@イル・パラッツォ。

5月 10日(金曜日)午後 1時より講演「批評理論の現代的課題ーード・マン、スピヴァク、ディモク」九州大学伊都キャンパス(司会・九州大学教授・高橋勤氏)九州大学准教授・高野泰志氏のクルマで向かう途上、ランチ@糸島サンセット。大学院生たちとの懇親会@桜花。以後、九州大学准教授・下條恵子氏のクルマで一路、長崎へ。ディナー@長崎出島ウォーフの紅灯記( Red Lantern)。以後二日間の宿泊@クラウンプラザ長崎グラバーヒル

5月 11日(土曜日)午後 3時よりシンポジウム「アトミック・エイジのアメリカ文学」長崎シーボルト大学(司会・西九州大学准教授・渡邊真理子氏、その他のパネリスト・田吹香子、松永京子の各氏)。同大学所在地は女の都(めのと)で、このシンポジウムは黒一点だ。当日のランチはロシア料理店ハルビン(写真)。会議後の懇親会@ベストウェスタンホテル長崎 15階ザ・キッチン。

5月12日(日曜日)午前 10時半ごろより長崎グラバー邸&遠藤周作記念館観光、ランチ@つる茶ん。ディナー@作家・野阿梓夫妻と宴会@中洲かに通。宿泊@イル・パラッツォ。

5月 13日(月曜日)午後 2時半より基調講演&パネル・ディスカッション「 9.11以後のアメリカ」佐賀大学(司会・佐賀大学教授・早瀬博範氏、その他のパネリスト・高野吾郎、鈴木繁の両氏)。ランチ@ホテル・ニューオータニ佐賀 2階の楠。佐賀空港より 6時 20分発の最終便 ANA456便で帰京。


*編集部注:ミルクセーキ:「長崎ではミルクセーキは飲むものではなく食べるもの」だそうです。

ヘビーな日程の割に、各地の招聘先がそれぞれ暖かく対応してくれたので、じつにすがすがしい出張であったが、その中でたった一日のオフの日曜日に興味深い出会いがあったので記す。

招聘先である九州大学の准教授・下條恵子氏や西九州大学の准教授・渡邊真理子氏、ずばり長崎に位置する活水女子大学に勤務する講師・大坪有実氏らとグラバー邸のあるグラバー園を散策していたときのことだ。この場所は長崎観光では定番であり、わたし自身五回目ぐらいだが、それでも毎回訪問するのは巡礼のようなものである。さてこの日、 5月 12日には、フロリダから来てアジア旅行を楽しんでいる最中だというアメリカ人スコット&インゲ・ベイカー夫妻(写真)が観光していたのだが、邸内に貼られた解説文の日本語がわからないとのことで、われわれが多少手伝う機会があった。それだけならば通訳に過ぎないのだが、二人は学者ではないものの、ともにハーヴァード大学出身のエリート、ご子息は FACEBOOK創立メンバーのひとりということで歴史的見解に関心があるらしく、昨今の時事問題をめぐる意見をさしむけてきたのである。

曰く、長崎の人々はいまも原爆投下したアメリカ合衆国を恨んでいるのか、曰く、中国が日本に戦時中の侵略について謝罪を求めているものの日本政府の対応には整合性がないようだが、個人的にはどう考えるか。

いずれも観光のついでに簡単に受け答えできるような簡単な問題ではないものの、まず最初の問いには、長崎出身で実質的な観光ガイドを買って出てくれていた活水女子大学講師の大坪有実氏が、いまはもう新しい世代にとっては当時の衝撃を実感しえないことを証言してくれた。

しかし二番目の問いについては、アメリカ人夫妻は特に興味津々であるようで、こちらに関する限り回答するには慎重を要したのである。じっくり考えたあげく、わたしはアメリカ南部作家ウィリアム・フォークナーが1955年に来日し、自分も日本人も同じ敗戦国出身であり、敗戦の想像力こそが新たな文学を創造し、いずれ日本にもノーベル賞作家が現れるだろうと予言したことを引き合いに出した。戦争犯罪に対する謝罪をするかしないか、歴史修正主義を肯定するかしないかは、本来多層的に構築されている現実が政治色を帯びるほんの一側面にすぎず、われわれはもっとずっと複合的な部分でもうひとつの世界を夢想する文学的想像力を相手にしているのではないか。そしてその深い時間において、北部に負けた南部とアメリカに負けた日本とは、まったく同じではなくとも環太平洋的にどこか通底しているのであり、両者はまさに敗戦の想像力を文学作品における創造力として、フォークナー的に言えば聖書正典からは排除された聖書外典にも似た想像力、正規の歴史を「アクチュアル」とすれば非正規の歴史「アポクリファル」とも呼べる想像力を培ってきたのではないか、と。

老夫婦は「そうか、フォークナーを読んでみなくては」と微笑み、ようやく納得したようだったが、この経験によりわたしは、今回の長崎シーボルト大学佐賀大学におけるシンポジウムおよび講演の思索を深めることになった。端的に言ってそれは「グラウンド・ゼロ」の文献学である。

かつて「グラウンド・ゼロ」( ground zero)といえば、語源的には 1945年8月、広島と長崎に投下された原子爆弾の爆心地を指す表現として<シラキュース・ヘラルド・ジャーナル>1946年 7月 1日号の記事において初めて使われた。この単語の「ゼロ」はいかにも爆心地のイメージを醸し出すが、じっさいにはアメリカ軍が原爆投下地点を極秘にしていたからこそ「ゼロ」で表現したにすぎない。げんに当初は広島以後の原爆は北九州の小倉に投下予定だったが、天候の悪さで視界が遮られたため長崎に変更になったといういきさつもある。どこに投下されるかは、直前までまったくの不明、具体性のないゼロ記号だったのである。原爆投下以前の実験段階で爆心地を表現するのが "ground zero"ではなく "epicenter"や "hypocenter"といった単語であったことも、今回、改めて長崎の原爆資料館を再訪して確認した。三年前には日本 SF評論賞でデビューした鼎元亭氏のお世話で資料館を初訪問したときには、迂闊にもそこには注意を払っていない。だが、いまは確信をもって言える。「グラウンド・ゼロ」は単純に爆心地一般を指す単語ではなく、まぎれもなくヒロシマナガサキがなければ浮上しなかった軍事用語が起源なのだ。

けれども、最近では 9.11同時多発テロが起こった直後、 2011年 9月 13日までにはアメリカの新聞が早々と、テロの現場そのものを、何ら核弾頭は使われていなかったというのに「グラウンド・ゼロ」と呼ぶようになり、それはヒロシマナガサキの記憶を矮小化し相対化する比喩の乱用、いわば濫喩として効力を発揮した。これが言い過ぎならば、 9.11の被害現場を「グラウンド・ゼロ」と呼ぶことで、ユンテ・ホアンの呼ぶ「核の普遍的意義」が強まったのだと言い換えてもよい。しかし、まさにこの濫喩が登場したからこそ、じっさいに 2003年のイラク戦争劣化ウラン弾が用いられることになった因果関係まで、やり過ごすわけにはいかない。

ここでわたしは 2007年のジェイムズ・ティプトリー賞受賞作家シェリー・ジャクソンの受賞長編『ハーフ・ライフ』( 2006年)が、ネヴァダ州の度重なる核実験のあげく少なからぬシャム双生児が生まれて公民権運動を開始するという展開であったのを想起し、その舞台がサンフランシスコはカストロ・ストリート周辺に設定されていることを強調したい。というのも、まさにその地帯こそがゲイやレズビアンバイセクシュアルやトランスジェンダーなどクイア(性的少数派)の公民権運動の勃興地点すなわち「グラウンド・ゼロ」として長く親しまれてきた事実があるからだ。「グラウンド・ゼロ」に一定の文化の発信地という意味合いがあることはどの英和辞典も保証するところだが、にもかかわらず、ひとつの地名が「グラウンド・ゼロ」の別名になるぐらいに特権化されたものとしては、わたしは「サンフランシスコ」あるいは「カストロ・ストリート」以外の固有名を知らない。

ネヴァダ州における核弾頭のグラウンド・ゼロから生まれたフリークスたちが、サンフランシスコを新たな文化を創造するための新たなグラウンド・ゼロと化して行く歩みをブラックユーモア豊かに、かつ建設的に描ききった『ハーフ・ライフ』は、まさしく 21世紀において人類と脱人類が共存していくという意味における二重の生命(ハーフ・ライフ)を探究した、ポスト・ヒューマン小説の傑作である。

1980年代半ば、のちに文化研究の大御所となるダナ・ハラウェイは「わたしたちはすでにみなサイボーグである」と述べたが、 いっぽう21世紀に入り、とうに 9.11同時多発テロを過ぎた時点で、シェリー・ジャクソンは「わたしたちはすでにみなミュータントである」ことを痛感させる作品をものした。むろん「グラウンド・ゼロ」の比喩の乱用を糾弾するのは難しくない。いま確認したように、それは最悪の軍事的シナリオを招来しかねないのだから。だが、かつて消極的な意味合いしか持たなかった言語表現が、ある瞬間より積極的な意味合いを帯び始め、人々を鼓舞することさえあることもまた、見過ごすわけにはいくまい。かつてわたしは 20年近く前、その名を冠したサンフランシスコの坂の途上のカフェテリアにおける経験を、名の由来すら知らぬまま「坂の街のグラウンド・ゼロ」と題するエッセイに仕立てあげたことがある(『想い出のカフェ』 [Bunkamura、 1995年]所収)。だが、もうひとつの坂の街・長崎を再訪したいまは、この店名が必ずしも安易に命名されたわけではないことを、一定の自信とともに深い反省を込めて、指摘することができる。

以上は、おおむねわたしが前掲の長崎でのシンポジウム「アトミック・エイジのアメリカ文学」で話したブラックユーモア論の内容とも重なるが、今回初めてシンポジウム企画立案および司会経験をこなした渡邊真理子氏からは、出演者全員に向けて総括メールが届き、そこには下記の印象深い一節があったので引用する。

核文学というと、とかくリアリズムを求められる傾向にあることは否めませんが、先生方は文学研究者として、リアリズムにとどまることのないご論考を披露してくださいました。

かつてマーガレット・アトウッドは、あるクリエイティヴライティングをテーマにした実験的な短編において、文学作品のポイントは"what"ではなく"How”だと述べていました。「何が起こったか」を軸にすると、登場人物が人間である以上、行き着く先はすべて「死」になってしまう。文学はその過程を「いかに」表現するかが大事なのだ、ということです。

この"how"において作家たちは想像力を羽ばたかせるのであり、核の問題を研究するにあたっても、これは重要なことではないかなあ、と思っています。

これが実に味のある意見と思われるのは、佐賀大学での基調講演とパネル・ディスカッションが終わり帰京してみたら、当の 5月 13日午前中より橋下徹発言が凄まじい反響を巻き起こしており、あれほど隆盛を誇った歴史修正主義すら無効にしてしまう衝撃をもたらしていたからだ。早速膨大な意見がネット状に書き込まれ、アメリカ通と称する人物の論点も披露されていたが、そこにもひとつ欠けているのは、歴史的視点である。「従軍慰安婦」という単語が "sex slave"という訳語で英語圏に蔓延したとき、とりわけアメリカ合衆国においてどうなるか。それは、仮に「当時、性奴隷制が必要だった」という発言がなされたとして「当時、黒人奴隷制は必要だった」と現在発言できるか、という問題に直結しよう。南北戦争当時、まさに「来るべき民主主義」のため、その黒人奴隷制を解体しようと、一国の大統領が生命を賭けた最終的判断は、リンカーン個人が沈思黙考することで下されたのだった。それは、必ずしも結果の保証のないまま、にもかかわらず未来に向かって投企せざるをえないユートピア的想像力のみが成せる業だった、と言ってもよい。まだ一切の歴史的事実( what)が保証されていないところに、多様な反発を覚悟しても踏み切った大統領の思弁的想像力( how)が来るべき世界を切り拓いたのである。

以来百五十年が経つが、その歩みにおいて、南北戦争五十周年のころのウッドロー・ウィルソン大統領にしても、百周年のころのジョン・ F・ケネディ大統領にしても、そしてずばり百五十周年の現在のバラク・オバマ大統領にしても、南北戦争について、とりわけ奴隷制の過去については高度な政治的判断からあえて発言を抑制し、さらなる未来の可能性をめぐって想像力を働かせているかのように見える。それは前掲ベイカー夫妻との対話でふれたフォークナーの「敗者の想像力」が正規の歴史の成り立ちそのものを問い直す「聖書外典的想像力」であり、もうひとつの歴史の可能性へ開かれていたことと矛盾しない。

もちろん、その手の想像力は安易に口に出来るようなものではなく、語り得ないもの、それこそシェリー・ジャクソンのようなブラックユーモアによってしか表現できないものであろう。臆病故の優柔不断というより、勇気ある沈黙もまた、選択肢のひとつなのだ。だが、それはまったく同時に、核の主題系において、いまなお文学的想像力が一定の役割を果たしうることの証左である。長崎を中心とする今回の九州ツアーは、いつになくさまざまなことを考える絶好の機会となった。

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*編集部注:なお、佐賀大学での巽先生のご講演は、佐賀新聞にて掲載されました。