#32 小泉八雲と SF的想像力

公開対談  小泉凡 VS 巽孝之
小泉八雲と SF的想像力
――ジャポニズムモダニズム、ポストコロニアリズム――

司会(尾山ノルマ):お待たせいたしました。ただいまより、公開対談・小泉八雲と SF的想像力、小泉凡VS巽孝之を始めます。

:今回は鬼太郎空港でも有名な鳥取県米子で初めて日本 SF大会が開かれることになったわけですが、同地で何らかのサーコンな討議をするとなれば、水木しげるとも無縁ではない小泉八雲すなわちラフカディオ・ハーンから説き起こすのが一番ふさわしいだろうと考えました。八雲の場合はおとなり島根県松江がゆかりの地になりますが、本日はそこから八雲の曾孫にあたる民俗学者・小泉凡さんをお迎えして、この対談企画が決まりました。
 
最初に、日本 SF史をたどってみますと、1977年に日本推理作家協会賞を受賞された石川喬司さんの『SFの時代―日本 SFの胎動と展望』の一章「日本 SF史の試み」でも、例えば『雨月物語』から押川春浪海野十三といった系譜はもちろん言及されていますが、小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーンは出てこない。長山靖生さんの説では日本 SF史は実は 150年の歴史があるということになりますが、小泉八雲だけは言及されることもありませんでした。もちろん、ジャンルとしての SFは、1926年のヒューゴ・ガーンズバックがジャンル名「科学小説」サイエンス・フィクション を標榜した『アメイジング・ストーリーズ』創刊から始まりますので、それ以前の作家は先覚者ということになります。しかし、先覚者としてもこぼれ落ちてしまった作家は少なくありません。
 
そこでハーンのことを調べてみますと、科学と幻想の交差地点を見据えていたことがよくわかります。彼が SF史からこぼれ落ちてしまっている理由の一つとしては、『怪談』があまりにも有名だということが挙げられます。ですが、この作品は 1904年、彼の亡くなった最晩年に発表されているんですね。つまり、『怪談』のハーンというのはそれまで彼が注力していた日本研究の仕事のうちではむしろ異色といってよい。ここに小泉凡さんをお呼びした理由があります。凡さんが 1995年に完成された画期的な修士論文民俗学者小泉八雲―日本時代の活動から』が証明しているように、小泉八雲は我が国では長く『怪談』の著者としてのみ知られてきましたが、むしろ日本における民俗学の嚆矢として、1910年の柳田國男『遠野物語』に先立つかたちの研究をしていました。 1890年の段階でジェームズ・フレイザー卿の『金枝篇』が出て、文化人類学の先鞭を付けましたが、まさにそうした文化人類学から我が国の民俗学へと橋渡しをしたのが小泉八雲であった。しかも、時はジャポニズム勃興期の世紀転換期、かつ SF史的には H・G・ウェルズが活躍し、さらには黄禍論(イエローペリル)かまびすしい時代とも重なっていました。そういうやや危険な時代にラフカディオ・ハーンは来日しました。
 
私は多文化的主体形成が SF的想像力の非常に重要な根幹を成していると考えていますが、ハーンはまさにこれを体現する人物なのです。彼はギリシアアイルランド系の文人としてアメリカのシンシナティに渡り、そこで黒人の妻マティ(アレシア・フォリー)と結婚します。当時は異人種間結婚が法律で禁じられていましたから事実婚ですけれども、けっきょくこの結婚生活が上手く行かなくなって深南部のニューオーリンズに移り住み、ジャーナリストとしてマルティニーク諸島の取材などを行うようになる。その中でヴードゥー教に関する取材などもしている。ちょうどその頃、ニューオーリンズで開催されていた万博の日本博にハーンはインスピレーションを受けて、1890年に松江に渡ったという経緯があります。『怪談』を読んだだけでは「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話を英語に訳した人物という程度の印象しか湧かないかもしれませんが、作家の想像力の中には、アイルランドの民間伝承における幽霊から黒人のヴードゥー的民間伝承におけるゾンビまでが様々に混じり合っていたのです。その八雲が再話した怪談話を、我々日本人が幼い頃からごくごく自然な、日本的な物語と見て馴染んでしまっているということ自体、すでに我々が多文化的主体として形成されている証左とも言えるでしょう。そして、SFというジャンルはこういった多文化的感性とすこぶる相性が良かったのです。
 
さて、このように説明しただけでは大風呂敷を広げるだけ広げ、八雲を幻想文学の文脈から SFと関連付けようとしているだけにも見えるかもしれません。しかし、他にも根拠があります。 19世紀中葉にはアメリカのマサチューセッツ州ボストンにボストン・ブラーミンと呼ばれる上流富裕階級出身の知識人集団が存在しましたが、その中でひときわ目立っていたのがローウェル家でした。その名家に生を享けた知識人、ローウェル天文台で知られるパーシヴァル・ローウェルという人物がいます。当時は日本の開国を受けて、バジル・ホール・チェンバレンやアーネスト・フェノロサ、チャールズ・ロングフェローといった日本研究に乗り出す学者が多くいて、ローウェルも1888年『極東の魂』という研究書を書いています。彼は 1890年代に入ると火星の研究を始め、火星には運河があるから火星人がいるだろうと主張を唱えます。この主張こそ、H・G・ウェルズ『宇宙戦争』( 1898年)にインスピレーションを与えたんですね。もともと日本人を研究していたローウェルが次に火星人を研究し始めたという歩みは大変面白い(笑)。

ローウェルがなぜハーンと関連があるかというと、『極東の魂』ニューオーリンズの日本博と並んで、ハーンに多大な刺激を与えたからです。ハーンが日本に渡ろうと決意するきっかけになったのがこのローウェルの著書なのです。現代 SFにも影響を与えつつ、一方でハーンにもインスピレーションを与えていたのがこのローウェルという人物でした。

小泉:ハーンは人生で一番長い期間、10年間をジャーナリストとしてニューオーリンズで過ごしました。ちょうど彼がニューオーリンズに住んでいた時期、1884-85年にニューオーリンズで万国産業綿花百年記念博覧会がありました。今スライドに映っているのが万博会場の写真です。松江市ニューオーリンズ姉妹都市になっていて、その関係で「ヒストリック・ニュオーリンズ」から寄贈してもらったものです。この二つの都市には、19世紀の建物があり、さらに規模は違いますが宍道湖と大橋川、そしてポンチャートレイン湖とミシシッピ川がある水の都という共通点もあります。ハーンは万博会場で日本の教育に関するパンフレットや工芸品などに魅かれたのだといいます。他にも、1882年にチェンバレンが英訳した『古事記』を読んでいました。この英訳版は神話マップがついていて、一番目立つ箇所に「出雲神話群」(Idzumo Legendary Cycle)と書かれています。おそらく、ハーンはこれで初めて「出雲」の存在を知ったのではないかと思います。また、日本海側に日本文化の古層があってそこを訪れようと考えたのではないでしょうか。
 
来日して横浜に着くとすぐに『古事記』を買って、精読をし、書き込みも残っています。一番書き込みがあるのが、天之菩卑能命アメノホヒノミコト)という出雲大社創建の神様に関する箇所です。書き込みを見る限り、複雑な背景に至るまで知識をもっていたようです。天之菩卑能命は鉄の釜に乗って天から降りてきたという伝承があり、神魂(かもす)神社にあるその釜を、1891年 4月 5日に実際に見に行き、「八重垣神社」という作品に書き残しています。何だかこれも SF的な感じがしますね(笑)。

このように『古事記』にもインスピレーションを受けたのですが、やはり何よりもローウェルの『極東の魂』の影響は大きかったようです。八雲は友人宛の手紙に、「驚くべき一冊の本を手に入れました。本の中の本ともいうべきもので、とてつもない立派な神々しい本です。一行一行読んでいただきたい。どうやってお送りするのがいいか言ってくれないか。というのも一字一句たりとも読み飛ばすことなく読んで欲しいからです。『極東の魂』という名の本だが内容の大きさに比べれば、この題名は小さすぎるくらいだ」と、感銘の言葉を記しています。
 
『極東の魂』は随分辛口な日米比較文化論だと思います。例えば「接木文化」「没個性」をキーワードに、進化論をベースにした考え方が貫かれています。ローウェルは裕福で日本を自由に旅し、観察をすることができる身分でしたから、ハーンはそのような点も羨ましく思っていたようです。

:お金持ちですよね。自分で天文台を作ってしまうくらいですからね。「接木文化」「没個性」は当時は消極的な価値観だったと思いますが、やがてモダニズムでは積極的な再評価が行なわれるわけですから、その点も見逃せない。
 
この当時の思想的背景として面白いのは、八雲の蔵書リストにはチャールズ・ダーウィンに加えて、社会進化論で知られるハーバート・スペンサーも含まれていたことです。優生学など人種差別を助長する言説であったことはたしかですが、八雲が社会進化論の影響も受けながら日本に関する考察を深めたという点では、ローウェルとも共通しているわけです。そのような文脈の中で、一つの日本人のイメージが織り紡がれて、ローウェルから八雲へとつながる影響関係があったとも考えられる。

小泉:そうですね。八雲はスペンサーを愛読し、『第一原理』を読んで以来、「スペンサーの弟子」と公言していたほどです。この点でもローウェルと共通していますね。八雲とローウェルとの直接の関係についてははっきりしたことは不明ですが、フェノロサの娘のブレンダが自宅のパーティで八雲とローウェルの間の席に座ったことがあるという証言を残しています。もしこれが事実なら、両者は直接の面識があったことになりますが、それ以外の証言がないので判然とはしません。
 
これが我が家で 25年ほどに前に鳩サブレの空き缶から見つかったローウェルから八雲宛の 3通の手紙です(笑)。緒方月耕という画家の絵が入った便箋に書かれています。1893年の 6月 2日付の手紙には、「あなたから手紙はいつもらえるのだろうか。市子(巫女)に相談しました。そうしたら月末までにもらえるだろう、ということでした」とあります。最初はよく意味がわかりませんでした。つまり、どうして返事がこないのか、ローウェルは悩んでいたわけです(笑)。

八雲は「日本人の微笑」という作品を残しています。これにはイギリス人の家庭で雇用されていた日本人の女中さんの話が書かれています。その女中さんがある日突然姿を消してしまい、心配しているとまた突然家に戻ってきて、夫が亡くなったので葬儀をしてきたということを、笑みを浮かべながら報告した。そのイギリス人の女主人は、日本人は夫に先立たれたというのに笑みを浮かべるとはなんて野蛮な民族だと言った、そんなエピソードを紹介しています。八雲は、それは見当違いで、日本人は相手の立場でものを考えているから、そこで泣き出すと雇い主が困ると考え、微笑んだのであって、困った時に微笑むのは日本人の伝統的な文化なのだと書いています。しかし、ローウェルはこの解釈があまり気に入らなかったようで、「これは仏教的な仏陀の微笑みではないか、つまり外来文化、接木文化だろう」と指摘しています。

:八雲はローウェルのファンだったわけですよね。それで文通を始めたのにもかかわらず、しかし、憧れていたローウェルに対して返事を書かなくなってしまうというのは、たんなる無作法とか筆不精では済まされない、決定的要因があったのでしょうか。

小泉: 3通目の手紙では「 3週間前に手紙を出しましたが返事こない。私の恐れることに、またまた手紙が行方不明になったのではないかと思います。2回目の手紙にはどんな官僚主義の政府でも満足させるほどに細かく住所も書いてあります。しかしどうしてでしょう」、という風に書いてあります(笑)。
 
ローウェルの手紙はラテン語ヘブライ語が入っていたり、修辞が凝らされていてとても難しい。例えば、「あなたのお名前は水の中ではなく、空に書きましたが、この絵―すなわち海があったり、蓮があったり、環境によって色を変える蛙がいる―が、私が現在やっている心的研究をよくあらわしているように思います」。巽先生も先ほど仰ったように、八雲はジャパノロジストとしてはペーペーだったわけですが、1894年に『知られざる日本の面影』という本を出した頃から、だんだん日本のことがわかってきて、ローウェルに対しても「没個性」や「接木文化」といった見方に批判的な立場をとるようになっていて、それはチェンバレンとの手紙の中に見ることができます。チェンバレンが八雲に宛てた手紙の中には、ローウェルを中傷するような記述があります。「私は著述家としてのローウェルはもはや好きではないのです。彼の凝りすぎた文体が我慢ならないのです。常に無理をして作ってあって、いつも地口と見れば飛びつくところがあります。そしてこれが爆竹よろしく足元で爆発するので、思想に注がなければならない注意力が損なわれてしまうのです」、とあります。そして八雲もこれに同調する素振りを見せるのです。

チェンバレンとこんなやりとりをするうちに、八雲はローエルを尊敬する一方で、日本観の違いを感じ、距離があるような、敷居が高くなったような感覚を抱いてしまい、それで手紙の返事を書かなくなってしまったのかもしれません。ですが、一方で八雲はこういうことも言っています。「私はローウェル氏の『朝鮮』や『極東の魂』のような見事な著作が自分で書けるなどと思うほどの自惚れ者ではありません。精確にして繊細、言語表現の完璧な彼の著作の傍に置いたら、きっと惨めな出来栄えを晒すでしょう」。しかし、こうは言いながらも返事は書かなかったようです。

:前述したようにローウェルはボストン・ブラーミンの一員ですから、もともとギリシア・ラテンの教養があり、英語で言うと“cloth of gold”、金襴緞子のような豪華絢爛をきわめた文体と言われます。17世紀のピューリタンの文章も一般には誰にでもわかる平明体 “plain style”と言われるものの、たとえばコットン・マザーのように巨大な学識を蓄積した教養人などは、やはりギリシアラテン語を散りばめた文体なのですね。あまりにそういう文体に浸りすぎると辟易してしまって、もっと読みやすい文体を求めるようになる。たとえば、私の世代が習った先生方、すなわち 1950年代に大学生活を送って大学教授になった先生方は、英作文の模範としてまずはラフカディオ・ハーンを読めと言われたそうです。わかりやすく説得力がある英語として彼の英語が推奨されていたのです。ただしローウェルの場合は、非常に知的ながらエンターテイニングで人を楽しませる著作だった。例の火星運河説も、現代の科学では顧みられないものの、ほかならぬ H・G・ウェルズを含めて、多くの人をひきつけた。一方では日本研究に、一方では SFに影響を与えたというような人物は、パーシヴァル・ローウェルのほかに存在しません。
 
しかも、そうしたイマジネーションが世紀転換期を席巻する。以前わたしは、ウェルズの『宇宙戦争』から影響を受けた未来戦争小説ばかりを集積して全集を編んだことがあるのですが(American Future-War Fiction: China and Japan, 1880-1930. Athena Press, 2011年)、世界終末の日を描いた作品は当時大量に書かれていました。ローウェルに影響を受けたウェルズにさらに影響を受けた作家たちが、世紀転換期に大勢出現した。その背後には、一定の人種差別意識があって、初期のSF小説におけるエイリアン造型に大いに影響したでしょう。

我々は柳田國男を通して河童の伝説やオシラサマのことを知りますが、小泉八雲『知られざる日本の面影』『心』ですでにそういうものを書いている。そして彼の中では、目に見えないものが自然界にひしめいていると観る水木しげるに通じるような認識と、動物や昆虫などを正確に記述する自然観察記録が矛盾なく共存している。『心』などを熟読して驚くのは、キリスト教などと比べて神道がはるかに科学的だと言っている点です。神道は近代科学以上に科学的であるとすら断言している。『怪談』の小泉八雲というイメージばかりが先行しがちですが、彼の科学的関心は見逃せません。

小泉:八雲の蔵書の内、100冊ほどが自然科学の本で、それらにも八雲は目を通していたようです。八雲は虫についての作品が多く、十数作品ほどあります。ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』を始め、昆虫に関する蔵書も多く持っていました。現在、2435冊の蔵書は富山大学に収蔵されています。というのは、関東大震災の後、妻セツが東京以外の場所に蔵書を移した方が良いのではないかと思うようになり、教え子の田部隆次氏に相談した。すると田部の兄で、旧姓富山高等学校の校長だった英語学者の南日恒太郎にこの話が伝わり、南日は一夜で上京し、富山へぜひ蔵書をと懇願され、さらに富山の廻船問屋の未亡人が 100万円という多額の寄付をし、蔵書を収める建物が建設されました。
 
1988年には昆虫学者の長澤純夫さんが八雲の虫に関する作品を翻訳し、『小泉八雲−蝶の幻想』を刊行なさっています。八雲の昆虫に関する作品には、「蝶」、「蚕」、「蚊」、「蠅」、「蟻」、「蝉」、「蜻蛉」、「蛍」、「草雲雀」、「虫の音楽師」、「昆虫の詩」などがあります。基本的には日本文学の中の虫を紹介しつつ、古代ギリシア詩人も虫を愛し、詩に読んだという比較をする一方で、蝉の鳴き声や大きさを記述するなど正確な観察も散見できます。八雲は博物学者としての側面もあったわけですね。

民俗学者としてもフィールドワークをきっちり行う人物だったようです。私がそのことに気づいたのは、アメリカ人のW・K・マクネイルという民俗学者が、“Lafcadio Hearn: American Folklorist,” Journal of American Folklore, Vol 91, No 362(1978年)という論文で、アメリカの民俗学を切り開いたのはラフカディオ・ハーンだと書いているのを読んだ時です。私自身は旅好きな風来坊という感じで、小学生の頃からよく一人旅をしては家出少年と見紛われたりもしていました。そこで旅を続けるために民俗学を専攻したというのが正直なところです。当初は柳田とハーンは結びつかなかったのですが、後になってからハーンが民俗学の先駆者だったということを知って、目から鱗でした。いずれにしてもハーンは自然科学的な観察・思考を持っていた人物だったようですね。

:肝心なのはフィールドワークで膨大な収集を行ったというところですよね。小泉さんが『民俗学者・小泉八雲』を出したのと同年1995年に、コロンビア大学のマリリン・アイヴィ教授が『滅びゆくものの言説』Discourses of the Vanishing: Modernity, Phantasm, Japanという『遠野物語』論をシカゴ大学出版局から出しています。国鉄のキャンペーンで 70年代には「ディスカバー・ジャパン」、80年代には「エキゾチック・ジャパン」がありましたが、その一環として後者において遠野が広く宣伝されていく現象を分析して、日本国外ではなく、国内へのエキゾチシズムを高揚させる点に日本の高度資本主義の戦略を見るという、これは大変刺激的な論考でした。
 
小泉八雲もそういうポストモダンの潮流と連動していたかどうかはともかく、ここに来て、昆虫も含めた様々なアプローチが為されて、ギリシアアイルランドでもラフカディオ・ハーンの再評価が進んでいる。我々の知っているラフカディオ・ハーンは『怪談』の作者であり、ジャパノロジストという認識ですが、ある人にとってはギリシア人として、あるいはアイルランド人として、はたまたアメリカ人としてのハーンを無視することはできない、という非常に多角的で学際的な視点があるわけですよね。先ほど凡さんがお話ししてくださったように、ハーンがパーシヴァル・ローウェルに憧れながらも距離を置きだした理由には、『知られざる日本の面影』の方が『極東の魂』よりも売れてしまったということもあるとか。

小泉:初版だけでも 26刷までいきました。

:原題は Glimpses of Unfamiliar Japan。これが出たのは 1896年の三陸地震に先立つ 1894年なのですが、そのころから神戸に住むようになったハーンは、『神戸クロニクル』 1894年 10月 27日付に「地震と国民性」(“Earthquakes and National Character”)という大変面白いエッセイを寄稿しています。キーワードが “instability” (不安定さ)で、日本は自然環境が不安定であるため、日本の家屋は一見やわに作られているように見えるが、それは災害で倒壊してもすぐ作り直せるからだと書いている。日本人は天災の多い自然環境に合わせて家屋や生活を作り出し、それが国民性に大きく反映しているという、地震国家日本と日本人的本質が結びついているという考察がなかなか深い。例えば、小松左京が 1973年に発表した大ベストセラー『日本沈没』では、日本列島が沈没したあげく日本という国家そのものが存在しなくなってしまい民族離散の運命を辿るという、まさにユダヤ的なディアスポラの想像力を展開していますが、逆にハーンにおいては、日本人はもともと不安定な土地に住んでいるから日本自体がなくなっても生き残っていけるはずだという、サバイバルの思想が織り紡がれている。

小泉:確かにそうですね。八雲は死後の世界以外、日本には安住の場所はないのだとも言っています。伊勢神宮の 20年に一度の遷宮も神威の更新と捉えています。変化を受け入れざるを得ない自然環境ゆえに、日本人は短期間で西洋の文化を受け入れ、変化に対応していくのだと言っています。

八雲自身も自然災害に関心があり、最初の小説『チータ』(1889年)は、ニューオーリンズから 100キロメートルほど離れたグランド・アイルという島をおそったハリケーンの際、たった一人の生存者だったチータという名前の少女が漁師の娘として育まれるという実話に基づいた作品でした。大自然の力と自然に逆らわずに生きる人間の生き方を描き出したのです。グランド・アイルは今でもハリケーンによく襲われる土地で、建物の 1階部分は柱だけで、人が住むのは 2階という構造の家屋が並んでいます。だから日本に来てからも災害の多さには気づいていたようですね。神戸かららニューヨークの友人ヘンドリックに送った手紙には次のように報告しています。「ひどい天候、洪水、家屋の倒壊、溺死。一連の自然災害はこの国の森林伐採によるものだと思います。私が神戸を離れる直前、普段は乾いて砂地が見えている川が、雨の後堤が決壊して、川の水が町中を一掃してしまいました。その結果、数百戸の家屋が破壊され、100人が溺死したのです。それから東北地方の津波のことをご存知でしょう。たった 200マイルの長さでしたが、約 3万人の命が奪われました。東部中部地方では今も相当の地域が川の氾濫で水に浸かっています。琵琶湖の水面が上昇し、大津の町は水浸しです」。こういった関心が「生神」(“A Living God”)を生んでいくのだと思います。

:英語表現上の決まりで、“God” はどうしても大文字になってしまいますが、キリスト教そのものには批判的だったわけですよね。『怪談』が “Kwaidan”と訳されるところにポリシーが感じられます。直訳して“Ghost Stories”とかにしていない。“ghost” は間違っていないけれど、東京大学で連続講義を持っていた時に、ハーンが西洋における “ghost” の意味を語っています。これは四半世紀ほどまえに、私がハーンを読みなおさなければならないと感じたきっかけでもあるのですが、ハーンにとっての “ghost ”は “Holy Ghost”、つまり聖霊であるということなんですね。ただ、それだけじゃなくて、「生神」や八百万の神というところまで “ghost” という単語が網羅してしまう。神は神なのだけれど、ハーンにとってはむしろ日本的な神は広義の “ghost” であり、精神そのものにつながるものなのでしょうか。

小泉:そうだと思います。1893年 12月 14日付のチェンバレン宛書簡では「人生に生きる目的を与えたのは何だろうか。それはゴースト “Ghosts” です。あるものは神々 “Gods” と呼ばれ、あるものは “Demons” あるものは “Angels” といわれたが、彼らは人類のために世界を変化させた。彼らは私たちに生きる目的、自然を畏怖することを教えてくれました」と書いています。“ghost” はそういった霊的なものの総称ととらえているようです。

さきほど申し上げたように、1896年の 6月の明治三陸津波に衝撃を受けた八雲は「生き神」という作品を書きます。1854年安政南海地震の際に、紀州広村の庄屋の濱口梧陵という人が、稲の束に火を放ち、人々を無事避難させたという実話がある。それを八雲はより感動的に再話して作品化したのです。なぜ地震の話が「生き神」というタイトルかというと、濱口梧陵という人が、機転のきく人であると同時に大変オープンマインドで人々を元気づけた。村の人たちは、家は流されたけども、彼のおかげで命は助かる。そして彼は村人たちを雇用して高さ 5メートルの広村堤防を造り、さらにその上にハゼの木を植えて、何十年か後にはぜろう(櫨蝋)から巨万の富がこの村に落ちるように、と考えた。それで、みんな濱口梧陵に感謝して、神として彼を祀った。史実では梧陵は謙虚な人なので、それを辞退したのですが、祀ろうという所まではいったのです。八雲は、こういうことも日本ではありうるのだと。生きている人間でさえも、時には神様になってしまう、そういう柔軟で汎い神観念に共感したのでしょう。これも自然にも逆らわない思考だと理解したのだと思います。

:ちなみにこの津波というのが英語で出たというのは、いつ頃なのでしょうか。

小泉:はい、OED を見ますと、この「生き神」が初出だと書いてあるのですが(笑)、実はそうではない。エライザ・シドモア (Eliza Ruhamah Scidmore) というアメリカの地理学者が、八雲より数ヶ月前に『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』に東北の明治三陸津波を紹介して、その中に“tsunami”という言葉が 3回出てきます。だから八雲の「生き神」本当は初出ではないのですが、広まるきっかけを与えたのは確かですね。

:いまは英語でも津波はメタファーとしても普通に使われています。たとえば傑作小説を賞賛するブラーブにも “tsunami of imagination” などが自然に使われている。その意味でも、これは「津波」を英語にした記念すべきテクストではないでしょうか。地震津波のなかに国民性を見るというのは、ハーンの時代に我が国は大変な自然災害に遭っていて、そこからハーンが独特の思弁 “speculation” を展開していった帰結だと思います。かつ防災ということに対しても、生神というところに到達した。“Ghost” に対する考え方にしても、普通は日本的な感覚だと “ghost” と “god” は異なる気がしますが、“Holy Ghost” から来るのだという感覚は非常に面白い。そして日本に来て、西洋は基本が盤石という意味で “still”、つまり固定して安定しているけれども、日本では不安定さのなかで独自のゴースト観が形成されたと述べる。ここがハーンの面白い点だと思います。日本に対する考察を深め、日本人の精神性みたいなものを見抜いていた。例えば日本の SFを考えると、災害ものは結構ある。『日本沈没』に影響を受けた作品も筒井康隆「日本以外全部沈没」( 1973年)から始まって柾悟郎『ヴィーナス・シティ』( 1992年)から藤崎慎吾の『ハイドゥナン』( 2005年)、上田早夕里の『華竜の宮』( 2010年)まで、さらには小松自身と谷甲州が共作した『日本沈没 第二部』に至るまで次々に書かれている現状を見るならば、日本沈没 SFというサブジャンルが想定できるほどです。アメリカでは、自然災害はテクノロジーで制御しようと考えるけれども、日本の場合は災害とどう共存していくかということを考える。こうした場合、ハーンの洞察が知らず知らずのうちに生きてくる感じがします。ですから、1904年に亡くなってしまったのは、返す返すも非常に惜しいですね。

ちなみに、この『生神』は、どこのエディションですか?

小泉:左側がバングラディッシュベンガル語)で、右側がインド(ヒンディー語)です。2005年に神戸で、アジア防災世界会議が開かれた際、この「生き神」が話題になりました。もっと現代社会で活用できるのではないかと。当時は小泉内閣だったのですが、その後すぐに政府の外郭団体としてアジア防災センターが神戸に作られました。同センターがアジア諸国NGOと連携して防災教材用に『生き神』の様々な翻訳を出しています。他にも、シンハラ語スリランカ)、タガログ語(フィリピン)、ネパール語タイ語インドネシア語、マレーシア語などがあります。これはクロアチア語版で翻訳者は、ミルナ・ポコトワツ・エンドリゲッティという方です。本業はバイオリニストですが、日本にコンサートに来たとき、この話を知り感動してしまい、帰ってから翻訳した。この人は知日派川端康成の研究者でもあるのです。それで、自費出版してクロアチアの子どもたちに配っている。そんな嬉しい話題もありました。
 
私も 3.11の震災から 1ヶ月後に石巻に行きました。石巻にも「みちのく八雲会」という小泉八雲の愛好者の会があり、その方たち全員が被災されたので、お見舞いに行きました。その会員たちが、『稲むらの火』の紙芝居を DVDにしたのは昨年のことです。八雲の「生き神」は、中井常蔵さんによってリライトされ、「稲むらの火」として国定教科書に載ったことはよく知られていますね。この作品が防災という観点でいま活用されています。

:多国語に翻訳され批評的にも再評価が進む八雲像の背後では、テクストだけじゃなくて、ギリシアアイルランドなどゆかりの地における随分大規模な記念事業が行われているのですね。

小泉:はい。2009年頃から、ギリシア人の愛読者のタキス・エフスタシウさんが、八雲の精神の根幹にはオープンマインドというものがあるのではないか、これは 21世紀の大事な思考だから、これを、アートを通して広めようと、アテネで、「オープンマインド・ラフカディオ・ハーン」という現代アート展を開きました。八雲の精神性を表現した造形作品をウェブ上で募ったところ、47名のアーティストが作品を寄贈してくれた。その展示会は、非常に反響があり、翌年は重要文化財で今年国宝になった松江城天守閣で開きました。私よりも家内が中心になって実現させたのですが(笑)。その次の年はニューヨーク、さらにニューオーリンズ。オープンマインドという言葉が独り歩きしてもいけないので、2014年には八雲の生誕地ギリシアレフカダ島で、もう一度それを検証しようと 9人のパネリストでシンポジウムをやりました。その際、レフカダ島にヨーロッパ初のハーン・ミュージアムもオープンしました。

:この島名「レフカダ」( Lefkada)が「ラフカディオ」( Lafcadio)の起源なのですね。

小泉:そうです。「ラフカディオ」は「レフカダっ子」ほどの意味です。正しい英語名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」で、ミドルネームとして生誕地の地名にあやかったのです。

レフカダのシンポジウムでは、八雲は思い込みが激しいところもあるけれども、そういう点を自認しつつ、常に新しいものを受け入れていくという気持ちを持っていた。そういう考え方を子どもたちにも伝えていきたいと、そんな感じで結ばれました。同時に、俳優の佐野史郎さんと松江南高校時代の同級生であるギタリストの山本恭司さんがライフワークとして小泉八雲の朗読ライブをやっています。去年それをレフカダ島でやったら 600人の方が集まりました。字幕付きで日本語の朗読を聞いて、日本人と同じように喜怒哀楽を示してくれて、最後はスタンディング・オベーションになり大きな感動をよびました。今年はそれをアイルランドで 10月にやることになっています。

八雲がケルトの伝統文化と接したのはダブリンではなく、ダブリンから離れた 200キロほど南へ行ったケルト海に臨むトラモアという小さな町でした。トラモアは、ケルト語で「“big strand” 大きな砂浜」という意味です。ここで泳ぎを覚えて、ほとんど毎晩のように乳母のキャサリンコステロから昔話や怪談、妖精譚を聞いています。非常に幸せな時間を過ごした場所でした。その場所に、6月 26日に小泉八雲庭園ができました。これはオープンしたときの写真です。トラモアの郷土史家のアグネスさんという方の発想です。「いつかハーンの人生を庭で表現するのが夢だわ」と 3年前にお会いしたときに言っておられたのですが、本当に3年で実現してしまった。いつしか政府もこうしたことに耳を傾けるようになったのですね。八雲を国家資源として地域の活性化にも生かす。と同時に八雲の豊かな異文化体験やオープン・マインドな思考を、世界に発信したいという気持ちもあったようです。決してエセ日本庭園ではなくて、八雲の人生の多様性を 9つの異なる庭で紹介している。これはギリシア庭園です。ちょうど中心に小泉ファウンテンと呼ぶ湧水があり、その水が流れをつくって下の池にそそぐ、回遊式の庭園です。今年はこれから 10月にアイルランドの 3都市、ダブリン、ウォーターフォード、西部のゴールウェイで、佐野さんたちによる「朗読ライブ」や、ダブリン初の小泉八雲の里帰り特別展、シンポジウムが開かれる予定です。ここ 5、6年で、八雲を文化資源として現代に活かすさまざまな活動が展開しています。

:八雲は庭園や兜についても書いているところが、非常に面白い。単純に自然観察というだけでなく、人間の手が入った文化や構築にも関心があった。そうした視点から多文化的側面からなされる八雲研究、しかも作家としてだけでなく博物学者や民俗学者として八雲を見るという凡さんの見解が発展しているのだと思います。私の友人でタフツ大学のスーザン・ネイピアというジャパノロジストがいて、8年ぐらい前に慶應義塾大学ラフカディオ・ハーンについて講演をしてくれたのですが、ご母堂がアジア美術の専門家でジャポニスムに関心のある学者の家系に生まれたためか、彼女の理論においては世紀転換期の比重が非常に大きい。19世紀から 20世紀の頭にかけて起こった日本ブームが、20世紀から 21世紀にかけての世紀転換期で反復されているという考え方ですね。前の世紀転換期はジャポニスムであり、日本の絵画に影響を受けた印象派などが出てきた一方、我々の生きている世紀転換期ではクール・ジャパンで、日本の漫画やアニメが世界的なインパクトを持つようになった。この 100年の間に日本ブームが、別の形で反復されているのではないか。こうした考え方からネイピアが注目しているのが、八雲はとにかく様々なものを集めた、という点です。一種のコレクターで、オタクの元祖ではないかと、彼女は断言する。これはなかなか面白い考え方だと思います。彼は相当マニアックに色々と集める人だったのですね。

小泉:そうですね。例えば、キセルのコレクターで、百本以上は持っていたようです。しかしキセルは盗まれてしまい、いま 12本しかないのですが。また、作品にも書いているとおり、お札のコレクターでした。特に神社の護符のコレクションですね。こんな文章を書いています。松江で町を歩いていると、「どこの家の引き戸にも玄関のすぐ上にも、漢字が書かれた白い長方形の紙が貼ってあるのが目に留まる。長いふさのぶら下がった小さなしめ縄がどの家の軒にもかかっている。その白いお札にすぐさま興味を惹かれた私は、それからというもの熱心にお札を蒐集して歩くようになった」と。松江時代は休みの日が日曜日だけだったので、朝から人力車で神社で寺社を巡り、お札を集めた。それをどうしたかというと、先ほど言いました『古事記』を訳したチェンバレンを介して 1884年にオープンしたオックスフォード大学のピット・リヴァース博物館(Pitt Rivers Museum)に送っています。ここは人類学的な資料を展示している博物館です。私も 2006年に初めて行きましたが、八雲の送った護符のコレクションは未整理のまま雑多に引き出しに入っていました。それを学芸員のゼナさんと私の妻と一緒に一枚ずつ引っ張り出して写真を撮りました。私も訪ねたことがない松江の寺社の護符がでてきて驚きと懐かしさを覚えました。「西津田村安楽寺」。これは通称津田明神とよばれる鬼子母神を祀っているお寺ですが地元の人もあまり知らないと思います。右側が現在の新しいお札で、左側がハーンの送った百二十数年前のお札です。それから八雲が特に好きだった松江城山稲荷神社の護符です。護符に書かれているように当時は「城内稲荷神社」と呼ばれていたことがわかります。この周辺は火伏せの神様が少ないので、火よけのお守りになっていたようです。

それから、出雲の国では旧暦の 10月は神在月になりますが、特に出雲東部では佐太神社で盛大に神在祭が行われます。その期間だけ授与されるお札がこれです。「佐太神社八百萬大御神御影」と書かれている剣先型の護符で、下の方が若干黒っぽくなっていますね。ここに佐太神社のご神木の松の葉が入っているからです。とてもアニミズム的な匂いがします。八雲はそんなところが大いに気に入ったのだと思います。

それから、縁結びの神として、現在若い女性が年間 40万人以上も訪れる八重垣神社でもお札を見つけています。同社では、竹筒や護符を包む包装紙まで博物館に贈っています。竹筒は、海水を入れて神社に奉納する「潮汲」という習俗で使用したものです。

また千家尊紀(せんげたかのり)宮司と親しかったので、出雲大社で古典新嘗祭のときなどに使う火おこしの道具を譲ってもらいイギリスに送っています。これは、今も一番目立つところに展示されています。

当時のピット・リヴァース博物館の館長は、エドワード・タイラー (Edward Burnett Tylor)という、高名な人類学者でした。〔文化〕人類学の父と言われ、初めて宗教進化論を展開した人です。八雲はこの人に大変共感していた。タイラー博士のアニミズム研究に、自分がぜひ役に立ちたいと思い、博物館にお札を送ったのでしょう。実際、『原始文化』Primitive Culture, 1871)というタイラーの代表作を八雲は入念に読み込んでいた。これは富山大学の蔵書ですが、チェック印がたくさん入っていて、よく読んだということが分かります。かなりこだわりがあって、思い込むと何でも蒐集するコレクターだったと言えますね。

:お札の種類から言っても、ハーンの思想の中には、死者から色んなものを受け継ぐというのがありますよね。それは当時の文化人類学であり、後の民俗学に繋がっていくと思います。死者から伝統を受け継ぐ先祖崇拝などの感覚は、ある意味民俗学的なのだけれども、彼の中では社会進化論にも矛盾しなかったという点は重要でしょう。死者がゴーストとして、つまり普通の遺伝子じゃなくて、一種のミームとして我々の肉体という乗り物をどんどん乗り継いでいくような発想を、日本に来て彼がオリジナルな形で編み出したのではないか。ゴーストといえども、必ずしも幻想文学ではない。現代のハイテク世界の中でもサイバーパンク作家ウィリアム・ギブスンの電脳空間三部作や士郎正宗押井守の『攻殻機動隊』など、ゴーストは色んな形で出てくる訳ですから、最も原始的なものへの関心が、最も新しいものへの関心と結びつくというのは、世紀転換期の文化で非常にあり得たのではないかと思います。そしてそうした指向性は、モダニズム全般の精神史とまったく矛盾しません。
 
民俗学者小泉八雲』が出た後に、こうしたグローバルな八雲への関心がいよいよ広がってきましたね。

小泉:そうですね。かなり最近と言っていいと思います。2010年に松江で「ハーンの神在月」という文化事業を行い、全国に30ほどある愛好者・研究者の団体やと展示施設の関係者が一堂に会し、どうやってハーンを現代社会に活用していくか、とくに文化活動、教育、ツーリズムの場でどういう風に活用できるか、という観点で話し合いをしました。これが、かなり画期的な機会になったと思います。

:小泉さんだけでなく、ハーンの研究者も平川祐弘さん以降、沢山登場している。東大英文科の貢献者という点ではハーンと夏目漱石というアプローチも少なくない。「アメリカ時代のハーン」という研究は、どうでしょうか。シンシナティからニューオーリンズに下りてきたことは、意外に知られていないのでは?

小泉:そうですね。シンシナティ時代については、フロストという方が 1910年代に随分研究しました。それから、ニューオーリンズ時代については、ティンカーという伝記作家が掘り下げて本を出しています。それ以降アメリカでは、関心を持ってずっと追っかける研究者は、いない気がしますね。最近では、北九州市立大学のロジャー・ウィリアムソンさんがアメリカ時代のハーンを研究しています。これからもっと再評価されるかもしれません。

:何よりも新聞記者だった訳だから、「新聞記者ハーン」は、再注目されても良いのではないでしょうか?

再評価が始まっているということは、逆に言えば、これまでの文学史ではあまり評価されてこなかったということです。英語圏の作家として、英文学史にも米文学史にもきちんと定位されていないし、アンソロジーにも収録されることが少ないけれども、その名を知っている人は多い。日本文学史ではどうなのでしょうか。

小泉:そうですね。やはり本通りからは、外れると思いますね。

:日本語で書いているわけじゃないからかな。

小泉:そうですね。ハーン文学はどこにもあてはめられるし、どこからもからも外れていますね。去年ギリシアのシンポジウムでも世界市民的な人とか帰属が曖昧な人という定義が出されました。逆に言えば、だからこそものの本質が見えたのではないかと思います。ちなみに。2012年に妻がダブリンで一番大きい Easonという書店に行ったときに、「ラフカディオ・ハーンの本はありますか」と聞いたら、店員さんが顔をそろえて「誰それ?」と言っていたと。アイルランドは作家層が厚いですから。ダブリン・ライターズ・ミュージアムに行くと、ジョナサン・スウィフトからオスカー・ワイルドバーナード・ショーウィリアム・バトラー・イェイツジェイムズ・ジョイスシェイマス・ヒーニーなど錚々たるメンバーが並んでいて、その中で 4人がノーベル文学賞をもらっている。ハーンもここに殿堂入りはしているのですが、かろうじて廊下に写真があるだけです(笑)。

:私もアメリカの書店に立ち寄る時には意識してチェックするのですが、必ずしもハーンが置いてある訳ではない。読書家のあいだでは「ハーンって人がいたね」という反応が得られる程度です。かつて四方田犬彦氏が指摘していましたが、ハーンと似た運命を辿った作家では、モダニズム作家でありいわゆる「ロスト・ジェネレーション作家」の最年少だったポール・ボウルズがいる。この人はアメリカ人ですが、モロッコに移住してしまい、同地の民話を収集し、それを英訳していた。ベルトリッチ映画にもなった『シェルタリング・スカイ』だけは有名ですけれども、やはり文学史の中で定位しにくい。いまポスト植民地主義の時代を迎えて多文化的な視点が注目を集めていますから、「ギリシアのハーン、アイルランドのハーン、アメリカのハーン、日本のハーン」は、これから考察が行われると思います。

そろそろ時間が迫ってきました。

今回、小泉さんをご招待するにあたり、日本 SF大会は初めての出席ということで、わたしは事前に、参加したらきっとびっくりしますよと脅かしてしまいました。怪談より怖いかもしれない、なにしろ魑魅魍魎が歩き回っている空間ですから、と(笑)。にもかかわらずご出席を賜り、凡さんには心から感謝しています。ちなみに、ご子息はコミケットの常連で、マンガを描いていらっしゃるとか。

小泉:箸より先に鉛筆の握り方を覚えて、ずーっと絵ばっかり描いていました。下手なのですが、本当に絵が好きで、どうしてもマンガ家になりたいそうです。

:面白いですね、小泉八雲の玄孫がマンガ家になるかもしれないとは。
 
さて、せっかくですから、このさいフロアからどなたか質問などありますか。

質問者 1教師としてのハーンは、同時代的な文学作品の紹介ということでは、どんなものを当時の学生たちに教えていたのでしょうか。

小泉:私の知る限りでは東大で英文学を教えていたときは詩人論が中心だったようです。シェイクスピアあたりから始まって、自分が一番好きだったテニスンの詩を熱心に紹介していた。ちょっと珍しいところでは、ケルトの妖精世界に注目したアイルランドウィリアム・バトラー・イェイツ。八雲より 15歳若い詩人です。イェイツの『ケルトの薄明』は柳田国男の『遠野物語』に随分影響を与えました。そのイェイツを日本に、もっとも早い時期に紹介したのが、ハーンでした。妖精文学にかなりの時間を割いたのも、八雲の英文学講義の特色なのかもしれません。

また、八雲は目の悪い人でした。左目は 16歳くらいで失明しています。右目も、松江のメガネの三城で、近眼鏡の度数を測ってもらったら、16ディオプトリー、つまり視力検査表の一番大きな環が見えない強度な近視と言われました。ほとんど薄明の状態です。なので、メモは作るのですが、それはお呪いのようなもので、頭の中に入っていることを優しい英語で語るという形式の講義でした。でもそれが音楽を聴いているみたいで、学生にはとても心地よかったという話です。

:物凄く評判がよかったのですよね。いまの目から見ると、ハーンの講義の土台は一応主流文学です。ただ、19世紀の終わりぐらいまではイギリス文学史というのがまだちゃんと成立していない。ちょうどその頃ロンドンに留学していた夏目漱石も、英文学をどういう風に読んだらいいか困難を極めていた。それでも、ハーンは、ポーからオースティン、ヘンリー・ジェイムズなど、今日で言うと英文学の主流に親しんでいたことが、講義録から窺われる。大衆文学の方は分からないのですが。

小泉:そうですね。授業ではあまり紹介していないですかね。

:いまご質問された難波美和子先生は、熊本県立大学で教えていらっしゃる。熊本にもハーンの本旧居が、ビルの谷間にあるのですよね。

小泉:鶴屋デパートの後ろにありますね。

:そうそう。松江の記念館とは随分趣が異なる。

小泉:八雲は『怪談』の出版を見届けて亡くなってしまいました。最後の『日本―一つの解明』は手に取ることはできませんでした。でも『怪談』は 3年以内にドイツ語訳と日本語訳が出て、5年以内にフランス語訳が出て、イタリア語、スペイン語スウェーデン語、中国語、イヌイット語なんかも出ました。八雲は、怪談の中に “truth”(真理)があると言っている。例えば、八雲の好きだった怪談の一つに、子育て幽霊の話があります。幽霊になったお母さんが水飴で子育てをして、お墓の中で子どもを出産するという民話です。その最後の部分に「母の愛は死よりも強い」という一語を再話で付け加えていますが、それを怪談の真理だととらえたのでしょう。自分自身も母と4歳で生き別れしています。僕も東日本大震災の後、石巻に行って、被災地の瓦礫の悪臭がするなか、地元の方から、「あなたが来るちょっと前にこの瓦礫の中から若いお母さんの遺体が発見されたのよ。そしたら、赤ちゃんをしっかり抱きしめていた。そして石巻の市民があらためて涙を流した」という話を聞かされました。その時に、怪談の真理というのは時空を超えて変わらない本当のことなんだと確信しました。そして、この真理は普遍的なものだと感じました。そうでなければ、『怪談』がこんなに多くの言語に翻訳されることはない、という気がします。

:その時点で文化人類学な構造の観念を抱いていたのではないでしょうか。普遍性を持つナラティヴというのは、国が変わっても言語が変わっても変わらないと。

小泉:だから、レヴィ=ストロースもハーンに傾倒していたのです。さっきのお札集めが実はあれで終わらない。フランスのベルナール・フランクという学者に強烈な影響を与えています。フランクは「私はハーンの弟子だ」と言って日本に来て何百という寺を回っている。コレージュ・ド・パリにコレクションがあります。そのフランクの『日本仏教曼荼羅』という本の序文をレヴィ=ストロースが書いていて、「あなたと私の共通点はラフカディオ・ハーンを愛読していたことだ」とあるのです。

構造人類学ですね。

小泉:やはり構造という点を意識していたようです。

:現代にまで読み継がれている。やはり 3.11の後に再評価されるようになったというのはありますね。

小泉:はい。

質問者 2ラフカディオ・ハーンがオタク気質で色々と集めていたというお話ですが、パイプやお札の他に何か目立つものを集めていたのでしょうか。

小泉:あとは、ヘビースモーカーだったので、良い葉巻を、横浜にあったケリー&ウォルシュという輸入業者でかなり大量に買い込んでいた。またえんじのピン・ストライプのワイシャツが大好きで、当時横浜にあった大和屋シャツ店で、何着も買ってそればかり着ていたということです(笑)。

:ハーンはヘビースモーカーで、かつウィスキーもかなり飲んだ。

小泉:そうですね。

:それで心臓にきちゃったと言っていましたっけ。

小泉:心臓発作が起こるとウィスキーを飲むのです(笑)。アイリッシュ・ウィスキーだったかスコッチだったかは分からないのですが。また、アメリカにいるときにステーキの美味しさを知って、日本に来てからも毎晩のようにステーキを食べていた。それが余計に悪かったのではないかと…。ウィスキーは、アイルランド語で「命の水」という意味なので、八雲にとっては死水でかつ命の水でもあったのだと思います。

質問者 3安田と申します。大変面白いお話ありがとうございました。最初に『古事記』の英訳、地図を見て、日本海側のこちら側に神が沢山いるので興味を持って来たのではないか、というお話がありました。実際にこちらへ誰かに連れてきてもらったとか、あるいは地元の神戸での受け入れ方は、どんな感じだったのでしょうか。

小泉:日本へはウェルドンという画家が一緒に来ています。その人が挿絵を描きながら、八雲が日本から情報を発信する予定でした。ところが、派遣先の出版社への疑念が募り日本に着いた途端に契約を解消してしまうのです。

有り難いことにニューオーリンズで、服部一三という人と出会っていました。文部官僚で、当時万博日本館の代表者として来ていたのですが、その服部一三が一肌脱いでくれたのです。しかも『古事記』の訳者のチェンバレンも「私も一肌脱ごう」となって、外国人教師を探している全国の旧制中学校を探した。そして、大分に行く予定が立ったのですが、突然松江で、タトルさんという英語教師の評判が悪くて解雇され、「島根の方が急ぐから、松江に行ってくれ」と。横浜の寺で出会った真鍋晃という学僧に同行されて松江に赴任してみると、籠手田(こてだ)県知事を初め、生涯の親友となる西田千太郎という松江中学校の教頭や、学生たちにも大変温かく迎えられた。それで初めて松江で「人は信頼していいのだ」ということを感じたのだと思います(笑)。それで最終的に日本に移住し、松江で出会った小泉セツと神戸にいるときに正式に結婚する訳です。神戸では、短い期間でしたが神戸クロニクル社の社主、英国人のロバート・ヤング夫妻に温かく迎えられ、ヤング夫人のつくるプラム・プディングが大好物だったということです。

:ちょうど時間になりました。本日は小泉さんに来て頂き、たいへん充実したひとときになりました。皆さんどうもご静聴ありがとうございました。

*2015年 8月 29日(土曜日)午後 12時半より 2時。第 54回日本 SF大会<米魂>会場の米子コンベンションセンター BIG SHIP二階の国際会議室にて。