#29 高い城のディック

高い城のディック
――シアトルからデュッセルドルフ


text by Takayuki Tatsumi


昨年 2012年後半には 8月に北米のシカゴ、 10月にシアトル、 11月にドイツはデュッセルドルフと三回も海外出張が連続した。シカゴの会議については商業誌に書く機会もあったし、そこからインディアナポリスに足を延ばしてカート・ヴォネガット記念図書館を訪問したときのことはヴォネガット本刊行記念トークショウでもふれたから、 CPAでも報告済みだ。

10月19日 (土曜日)にワシントン州首都シアトルはシアトル大学で行なわれたPAMLA太平洋古代近現代語学文学協会)なる学会シンポジウム「島嶼とアメリカ文化」は(右写真)、いま科研費共同研究で行なっているモンロー・ドクトリンとアメリカ文学の問題系とも重なるもので、司会の和洋女子大学教授・佐久間みかよ氏(写真左端)から依頼があったのを引き受けた。ほかの講師としては成蹊大学教授・下河辺美知子(写真右端)とコネチカット大学教授メアリ・K・バーコウ・エドワーズ(写真右)の両氏がメルヴィルを、わたしがフォークナーを、そしてトリを飾ったウィリアム&メアリ大学客員教授メアリ・ナイトン氏(写真左)がグアム島ゆかりのクレイグ・サントス・ペレスを中心に議論を展開し、会場から積極的な質問も出て、充実した、完成度の高い内容となった。このときのナイトン氏の発表内容は その拡大版が去る 3月に G-SECアメリカ研究プロジェクトで行なわれたワークショップで発表されており、またこの「島嶼アメリカ文化」なるトピックで共同研究をまとめようという話も出ているので、期待していただけるとよい。

シアトルではほかにも、長年の友人であり 2007年の夏には世界 SF大会のため来日して本塾三田キャンパスでもワークショップをやってくれた作家のアイリーン・ガン氏(写真)とその夫君である卓越した書籍デザイナーのジョン・ベリー氏が住む家に招かれたり、湾岸でシーフードに舌鼓を売ったりした(ワークショップ・レポートは Panic Americana 12号 [2007]参照)。

またダウンタウン観光において、観光名所たる展望タワー「スペースニードル」(写真上)周辺にあるSFミュージアムおよびロック・ミュージアムに立寄り、とりわけ後者においては、ニルヴァーナからジミ・ヘンドリックスまでシアトル出身ミュージシャンの熱烈なフィーチャーぶりと巨大に屹立するギター・タワー(写真下)に驚いたものだった。

今回は久々の更新ということもあり、わたし自身が基調講演者のひとりとして招かれたドイツはデュッセルドルフ付近のドルトモント工科大学における第一回国際フィリップ・ K・ディック会議について、個人的につけているiPhone日記より抜粋する。

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ドイツはドルトムント工科大学という未知の大学から、 2012年11月に第一回国際ディック会議を行なうので基調講演者のひとりとして招聘したい、という誘いがあったのは同年の春、 5月ごろだったろうか。折しも川又千秋氏の代表作『幻詩狩り』ミネソタ大学出版局版の序文を書くのに、このところ川又氏にも影響絶大だったディックを読み返しており、頭がディックになっていたので、俗にディック・マニアつまり「ディックヘッド」な連中の集まるところへ出掛けていくのも悪くないと思い、二つ返事で承諾した。何と言っても「第一回」というのが魅力であった。じっさいには、去る 9月にサンフランシスコで「フィリップ・ K・ディック・フェスティバル」が行なわれてもいたといい、いま時ならぬ再評価の気運が盛り上がっている。よくよく考えてみれば、たしかに1982年はディック没後、『ブレードランナー』完成後 30周年にあたっていたのに気がついたのは、ごく最近のことである。
 
11月14日-15日(水曜日-木曜日)

深夜、小谷真理氏にクルマで羽田まで送ってもらって、全日空/ルフトハンザでフランクフルト経由デュッセルドルフへ、第一回国際ディック会議のために飛ぶ。

早朝、デュッセルドルフ空港に到着すると、主催者代表のイギリス文化研究専攻、ドルトムント大学講師の若手学者シュテファン・シュレンサクが「TATSUMI」という看板をもって迎えに来てくれる。何でも、これはSF研究というより、英米文化研究の一環として、あえてディックをテーマに打ち上げる国際会議第一弾、なんだとか。まずはキャンパス内のホテル(写真上)で休息を取ってから、夕方、大学ホール(写真下)へ足を運ぶ。

開会の辞は、文化研究学部副学部長ランディ・グンゼンハウザーと最年長のアメリカ研究者ウ"ァルター・グルンツウ"ァイク、それに若手のアレクサンダー・ドゥンストとシュテファン。

基調講演第一弾は、ディックへのオマージュである傑作長篇『鉄の夢』で著名なノーマン・スピンラッドのはずだったが、ヨーロッパの鉄道ストに巻き込まれケガもしたようで、夫妻ともに急遽欠席。代わりにイギリスの映画批評家マーク・ブールド(写真)が「スリップストリーム・シネマ」で脚色をデリダ的代補と見る講演。ディック映画の脚色という視点から、ディック作品の映画化はもちろん、彼自身がディック的センスをもっていると判断した映画ということで、吉本興業ウルトラシリーズのパロディ「大日本人」まで引証されていたのにはビックリ。

11月16日(金曜日)

やはり時差ボケのせいか、早めに起床してしまう。
国際ディック会議2日目朝はバネル「作家の成り立ちと解釈学」。ジェイムズ・パートンの宗教と生態学の連動やエリック・デイウ"ィスのディック神秘体験と神智学およびキリスト教再構築の試み、クリス・ラッジの「パーマーエルドリッチ」を中心に分析する作家が使ったドラッグ総解説など充実した討議。

11月16日-17日(土曜日-日曜日)

夕べのウンベルト・ロッシ氏の基調講演第三弾に続き、本日はわたし自身による第三弾「タゴミ氏の惑星ーーシュールレアリスムポストモダニズムのあいだで」ぶじ終了。この日記でも紹介したディックの FBI密告事件から推察されるパラノイア症候群から切り出す。その時の絶妙な二枚舌ぶりの証拠として、わたしは旧友であり、北米を代表する SF学術誌< SFスタディーズ>Science-Fiction Studies編集委員でもあるトロント大学名誉教授ピーター・フィッティングが 2010年の春に来日し、わたしに一冊のディック書名入り単行本をプレゼントしてくれたときのことを挙げた。フィッティングは16年ほど前の 1994年、立教大学の招聘によりデューク大学教授フレドリック・ジェイムソンと一緒に来日し、三人で映画をめぐるパネルをやった間柄。そのときのレセプションでジェイムソンから「とにかくデューク大学出版局へ企画書を出せ」とハッパをかけられたのが、英語圏初の拙著 Full Metal ApacheDuke UP, 2006)が成立するきっかけだったという逸話もある。

さて、そんなフィッティングが再来日したので、 2010年4月 6日(火曜日)の午後、拙宅のある三田ハウス一階のカフェレストラン「リール」に招く。はたして彼が差し出したのは、驚くべきことに、著者フィリップ・ K・ディック自身のフィッティングに対する謹呈のサインが書き込まれた早川書房銀背版『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 1969年 6月 30日発行初版しかも函入りであった(写真)。あの感動的な浅倉久志氏の訳者あとがきが初めてお目見えした瞬間である。聞けば、早川書房には翻訳の現著者には仕上がったものを数部送付する習慣があるそうだから、フィッティングの手に渡ったのがそのうちの一冊であるのは疑いない。カリフォルニア州出身のフィッティングはディックと親しかったころ、同じカリフォルニア州に暮らすディックのもとへジェイムソンらとともによく遊びに行き、アメリカ版ペーパーバックにもずいぶんサインしてもらったからサイン本には不自由していない、ということで、本書をわざわざ「おみやげ」として持参してくれたのである。だが、このサイン本が貴重なのは、そこにサインが施された 1974年5月11日という日付は、ディックがちょうど、フィッティングをもメンバーとする Science-Fiction Studiesの主要メンバーたちがポーランドのレムという政治組織に操られている危険人物だという告発状を同 74年5月 1日以降、FBI宛に何通も送付していた時期にあたる。フィッティング自身にはオクビにも出さずにサインしたディックが秘めていたパラノイアを考えると、これほど興味深い証拠物件はない。

以後、わたしは『高い城の男』がいまもキム・スタンリー・ロビンスンの歴史改変小説『米と塩の歳月』などでオマージュとともに更新されている実情に注目。そして最後に、日本におけるディックからサイバーパンクへ至る受容史を荒巻義雄川又千秋から伊藤計劃に至る系譜にして分析した。質疑応答も活発となり、『高い城の男』におけるイタリアの扱い(ロッシ)や1980年代日本で盛り上がったディック人気のゆえん(ラックハースト)など、熱く建設的な展開を楽しむ。前者ロッシに対しては、枢軸側を描きながらイタリア文化がいいかげんなのは、たぶんこれが 1970年代当時のサンフランシスコをモデルにしているためではないか、と答え、後者ラックハーストに対しては、ディック的後期資本主義批判が 1980年代日本のポストモダニズム流行とマッチしたのではないか、と答える。

また、当時はウ"ェトナム戦争の渦中なのに、いったいどうして第二次世界大戦を対象にあんな歴史改変を行ったのかという若手の指摘には、SFはリアリズムではないのだから SF的認識の衝撃、いわゆるセンス・オブ・ワンダーとは現実とあえてズレたところで現実の本質を撃つ戦略なのだ、とダルコ・スーウ"ィンの「認識的異化効果」を引き合いに出しつつ説明。

基調講演後は、院ゼミの教え子でトマス・ピンチョン専攻、いまミュンヘン留学中の明治大学准教授・波戸岡景太君(写真下)一家の誘いで、ナチスドイツ時代にはルール工業地帯を担いつつ、現在では遊園地として開放されている巨大工事廃墟ランズシャフツ・パーク@デュイスブルク・ノード(写真)へ。蒸気の冷却器の残骸などを見ると、まさにスチームパンクだ。こうした廃墟の観光地がドイツにはひしめいてるという。現在のドイツ国家は、廃墟をそのまま保全するメンテ作業にも余念がないとか。

夜はいったん大学へ戻り、会議出演者一同で集合して、地下鉄にて市内の店「シシー・キングコング」へ繰り出しフェアウェル・パーティ。基調講演者マーク・ブールドや北米 SFRA( SF学会)の現副会長ジェイソン・エリスは、ともにサイバーパンク批評誌 <SFアイ> Science Fiction Eyeでわたしの連載 コラム"Graffiti's Rainbow"を愛読してくれていたという。それに限らず、今回は会議の随所で < SFアイ>への賞賛を耳にしたので、いずれウェブ上のアーカイヴで読めるよう復刻すべきだろうか。そういえばブールドは SFRA機関誌のひとつ EXTRAPOLATIONで拙著 Full Metal Apacheに関する好意的な長文書評を発表していたのだった。

それにしてもこの会議、東洋人はわたしひとりだがチェコハンガリーポーランド、オーストラリア、ニュージーランドからの参加者も多く、なかなかの多国籍になっているのに、いまさらながら気づく。

11月18日(日曜日)

国際ディック会議最終日。
パネル「ディックとアンドロイド・マインド」のあとはロレンス・リックルスによる基調講演ラスト、閉会宣言、基調講演者、研究発表者全員の写真撮影。視聴者も含めると、のべ 80名ほどの規模の会議であった。

また、この会議では、かつて 1990年代後半に筑波大学集中講義を行なった時、学生として受講していた荻原江里子君(写真)に再会し、そのドイツでの一家に紹介されたのも印象深い。

会議全体の終了後には波戸岡君一家とランチしたうえ、デュッセルドルフ空港へ送ってもらうはずだったが、諸般の事情によりフランクフルトまでアウトバーンを飛ばしてもらい、そこから乗る。

11月19日(月曜日)

帰国便は成田到着。ロッシの提言により、国際ディック会議の絆は今後FACEBOOK上のコミュニティでより深く広く発展させていくことに決定。そういえば最後に撮った写真はドイツ側主催者側のヴァルター(左端)、ステファン(右端)とイタリアのウンベルト(右から 2人目)。おお再び三つの国が揃ってしまった。

『高い城の男』症候群は、まだまだ終わることがない。