#28-2 [特別編] デジタル・トランスパシフィック! 

大学のPCシステム移行期にあたりCPA Monthlyの更新が長い間できずにいましたことを皆様にお詫び申し上げます。大変長らくお待たせしました!巽先生の2009年サバティカル・イヤー講演旅行記続編です![編集部記]


デジタル・トランスパシフィック!―台北シドニー会議 July 09, 2009―






サバティカルのなかばに 
 
 サバティカル、すなわち研究休暇の使いみちは、人によってさまざまである。日本にこもったままひたすら書物に埋もれていくのも見識だし、まるまる海外の大学に所属して高名な教授の講義を聴講するのも見識だろう。
 わたしの場合は、とにかく「サバティカルでなければできないことをしたい」と思った。その関連でずっと頭にひっかかっていたのが、毎年少なからぬ海外講演やパネル参加の招聘状が届くとはいえ、日本との学年暦のちがいによりお断りせざるをえないものが、あまりにも多いということである。とりわけ、7月上旬というのは、日本の大学の前期終了期間であり、サボれそうでサボれない。ところが、この時期に海外招聘されることが、決して少なくない。
 今回のサバティカルを利用することにしたのは、まずは7月第二週目( 2009年 7月 7日ー 8日)に台北で開かれた国際会議「アジア・デジタル文化 2」(亞洲数位文化 2検討會http://techart.tnua.edu.tw/1_announce/article.php?i=973&s=3)である。台北におけるカルチュラル・スタディーズが盛り上がっていることは、数年前にも別の会議から招聘状が来たのでよく知っていた。1980年代には日本よりはるかに早い段階でポストコロニアリズム批評理論の紹介が進んでいた国であり、行けばおそらく多くの同志が存在するのだろうということも察しがついていた。しかし、いかんせん学年暦というやつはどうしようもなく、作家の川又千秋氏からもさんざん台北の良さを吹き込まれながらも、これまで訪問の機会を失していたのが実情である。
 そこへある日、小谷真理氏をこの興味深いデジタル文化会議の第二回目が開かれるので、是非講演者として正式招待したいという誘いが舞い込み、遊び半分同行するつもりにしていたら、ついでにわたしもディスカッサント(パネルの盛り上げ役だが、台北では何と「評論人」と呼ぶらしい)として招聘してもらえることになった。主催者は大学でも学会でもなく台湾の最高学術研究機関である中央研究院(民族学研究所)で、歴任院長には「胡適」やノーベル受賞者(化学)の「李遠哲」が含まれるという。


台北デジタル・カルチュア会議
7月 6日(日曜日)
 そこで今年、栃木県塩原温泉で行われた日本 SF大会 T-Con2009には最初からクルマで赴き、その終了日である 7月 5日(日曜日)に成田直行し、全日空系のクラウンプラザに一泊してクルマを預け、翌日 7月 6日(月曜日)の早朝の便で台北へ出発。到着すると、空港では主催者である中央研究院勤務の女性文化人類学者テリ・シルヴォ氏( Terj Silvo、アメリカ出身のれっきとした白人だが中国名では「司黛蕊」と名乗る)が出迎えてくれ、もうひとりのパネリストであるインド系若手学者ニーシャン・シャー( Nishant Shah)氏と合流し、ワゴン車で中央研究院内にあるホテルへチェックイン。この日はまだ会議の前日なので、ホテルへ迎えに来てくれたゼミ 10期生の OGで台湾出身の蔡藺薫(通称Tsai Jasmine、日本名では「薫」)君に市内観光の案内をしてもらう。蒋介石を記念する中正紀念堂(写真参照)の周辺もあたかもワシントン DCのリンカーン記念堂や議事堂周辺を思わせて壮麗だったが、「欣葉台菜」での夕食後に訪れた世界最高層ビル、 2008年に完成し高さ 509.2メートルを誇る「台北101」には圧倒された。豪華絢爛たるショッピングモールもさることながら、その展望台に文字どおり世界最速のエレベータで赴くと、台風の多い国ゆえ風圧制御のために設置されたという、黄金に輝く巨大な球形TMD(チューンド・マスダンパー)が鎮座しており、まじまじと観察。(http://atelier-ad.blogspot.com/2008/06/tuned-mass-damper.html こちらからチェーンド・マスダンパーの画像がご覧になれます[編集部記])


7月 7日(火曜日)
 いよいよ中央研究院民族学研究所新館三階の第三会議室( 2319)を舞台に会議本番。
 午前中最初のパネルは、デューク大学教授でポケモン研究の業績もあるアン・アリスン( Anne Allison)によるネット・カフェ難民論と、前掲インドの若手ニーシャン・シャーのデジタル原住民論で、わたしはこれらふたつの論考のディスカッサントを勤めることになった。前者は、現在日本の不況に伴う新部族について、インターネット文化を一種の補綴装置として取り込んだサイボーグ的主体でありながら、いったいなぜ旧来の家族観や職場観とさほど遠くない基準で「居場所の喪失」を嘆くのか、という逆説を、例の秋葉原通り魔事件の実例を分析しつつ語るもの。後者は、いわゆるデジタル原住民に属する新世代が、たんに最新のテクノロジーを駆使して遊んでいる無責任なだけの連中ではなく、それによってじつは最新の政治的介入をも行い新たな倫理観を確立しようとしているのだということを、「フラッシュ・モブ」や中国系ウィキペディアバイドゥー・エンサイクロペディア」、それにデジタル時代の映像ホークスといえる「マット・ハーディング」など豊富な実例を挙げて語るもの。わたしにはとくに後者における「フラッシュ・モブ」が『マトリックス』三部作華やかなりしときの「わらわらばーん」と連動しているように思われてならず、自然と質疑応答は映画作品と現実のテクノロジーとの連動をめぐる問題へと集中していった。
 昼休みをはさんで、いよいよ小谷真理氏の登壇。今回のトピックは「恋するマッドサイエンティスト」“Mad Scientist in Love”と題し、彼女自身が主要メンバーであるメイドカフェのアンチテーゼ「カフェ・サイファティーク」そのものの活動を分析するのに、『メトロポリス』のロートヴァングや『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のドク・ブラウンらマッドサイエンティストの伝統がいかに性差の政治学にまで根本的な影響を与えていったか、そしていまいかなる価値転倒が起こっているかを再確認していくもの。
具体的な活動については、下記のプロフィール第 16回「赤木リス子ハカセ」を参照。

http://kohou.scifitique.org/?eid=518686

 このパネルでのもうひとりの発表者、若手女性文学者の劉人鵬( Jen-peng Liu)の論考は、『エヴァンゲリオン』の台湾における受容を中心に、学校という舞台がどんな意味をもつか、これが従来のロボットアニメといかに異なるかを「メランコリーの政治学」の視点から分析してサイボーグ的主体構築を再検討するもの。
 両発表者をめぐるディスカッサントとして入った女性作家のルシファー(洪凌)はしかし、後者についてはのっけから「いったいどうしてあんな男性同性愛的アニメを好きになるのか、気が知れない」とけんもほろろで、前者、つまり小谷氏の発表のほうを「すばらしく面白い発表」と大絶賛し始め、カフェ・サイファティークには「性差倒錯の可能性」があるのを高く評価し、これは以後の議論でも「これまで周縁的だったオタク自身が萌えの対象になるとは」という方向へ展開した。ここで『聖母エヴァンゲリオン』の著者である小谷氏が『エヴァ』批判の話題には乗りそうで乗らず、あくまでカフェ・サイファティークの可能性を説くのに徹していたのが、客席からのいちばん微笑ましい見物であった。


7月 8日(水曜日)
 この日の午後まで続いた会議は主催者テリ・シルヴォのアニメ論やヘレン・グレースの写メール論、ケリム・フリードマンウィキペディア論、李士傑のセカンドライフ論まで刺激的な発表が多く、デジタル文化という尺度ひとつで世界の多様なる側面を切り取ることができることを証明した。これまで「文学と科学」やら「文学とテクノロジー」といった範疇で切り取られていた学問分野は、ここでまったく新しい段階に足を踏み入れたといえるだろう。

 会議終了後にはテリ(写真左手前)の勧めで、かつて革命分子が集っていたことでも有名な瀟洒なるティーハウス「紫藤廬」 に立ち寄る。そのあとは、同会議にはニューイングランドのウィリアムズ大学准教授である旧友クリストファー・ボルトンもディスカッサントのひとりとして来ていたので、彼も誘い薫君と合流してニューヨーク・タイムズでも世界のベストテンに選ばれた「鼎泰豊(ディンタイフォン) 」にて小籠包に舌鼓を打つ。そののち、ジュンク堂を思わせる誠品書店へ赴き、最後は台北ブルーノート(写真参照)で台湾人若手のピアノジャズ・トリオを聴きながら、ビールで祝杯。(写真左後列:クリストファー・ボルトン氏、右前列:巽ゼミ第10期OG蔡藺薫氏) 


 翌日 9日(木曜日)には、薫君とともに、会議が用意してくれた空港行きタクシーに乗り、午後 2時半のフライト。薫君も本来は実家が台中なので、これから帰省する模様。この夏は9月に受ける公務員試験の準備で、いつになく多忙になるらしい。
 別れ際「合格するよう祈ってください」と彼女が言うので、「わたしはカトリックだが、その祈りでもいいか?」と訊く。小谷真理氏は「あたしは浄土真宗大谷派だけど、それでもいい?」
 薫君が目を白黒させているのを尻目に、われわれはゲートに入った。


シドニー環太平洋アヴァン・ポップ会議
7月 13日(月曜日)
 シドニー大学講師のレベッカ・スーターよりわたしと小谷真理両名に対する招聘があり、 JSAA- ICJLEの今年度国際会議に出席するため、成田を発つ。このように略称で記すとよくわからないが、 JSAA- ICJLEを全訳すると「豪州日本研究学会」が主催する「2009年度豪州日本研究大会・日本語教育国際研究大会」ということになり、ますます字面が難しくなってしまう。これをあえて平たく説明すると、たとえばわたしが長く所属する日本英文学会は日本における英語英米文学の普及を第一目的としているものの、年次大会では主として日本語による発表が多いが、そこにおける言語制度をまったく正反対にしたものと考えればいいだろう。つまり、研究対象はあくまで日本語日本文学なのであるが、にもかかわらず研究発表では主として英語が採用されているのである。参加者の大半は人種を問わず日本語ペラペラだが、研究発表やパネルになると、いきなり全員が英語モードに切り替わる、というわけだ。
 さて、レベッカ・スーターという名前に聞き覚えがある、というかたは、決して少なくあるまい。 生粋のイタリア人ながら、村上春樹の研究で博士号を取得し、 2008年にはそれをもとにした英文単著『モダニティの日本化——日米間の村上春樹』 The Japanization of Modernity: Murakami Haruki between Japan and the United States をハーヴァード大学出版局から刊行したのちには、シドニー大学に職が決まった日本文学研究の俊英。2007年に横浜で開かれたワールドコンでは、わたしの司会する「アヴァン・ポップ」のパネルに登壇し、「村上春樹は敵だ!」と宣言する笙野頼子氏とともに論戦をくりひろげ、以後は『ミステリ・マガジン』にも 2008年 1月号よりコラム「旅人本の虫レベ」を連載中。まことに多彩な若手文学者なのである。
 その彼女より、上記の会議の一環として「環太平洋アヴァン・ポップ」“Transpacific Avant-Pop” のテーマでパネルをやってくれないか、という要請が来たので、一も二もなく引き受けた。主たる理由は、十年ほど前のワールドコンではメルボルンを訪れたものの、シドニーは未体験だったこと。
 そこで、出演予定の会議日をはさみ、正味三日間のシドニー旅行を敢行。南半球に移動するものの時差がないので、夜8時台のカンタス航空で出発、翌日の早朝7時台にはシドニー航空到着。


7月14日(火曜日)
 シドニー空港からシャトルでホテル・マリオットへ直行。ここはシドニー・ハーバーの最寄り「サーキュラー・キー」( Circular Quay)の一角で、お台場とみなとみらいを合成し、さらにプラスアルファを加えたようなウォーターフロント風景がすばらしい。というか、シドニー湾岸をモデルに現在の東京湾岸や横浜湾岸が建設されたというべきか。
 少々時間は早かったが、チェックインは可能。ちょうど学会開始時間が迫っていたので、ホテルの部屋に荷物を運び込むやいなや、タクシーにて会場のニュー・サウスウェールズ大学へ。ちょうどレベッカが実質的に司会進行する翻訳論パネル “Translation and Japan”が始まったばかりで、村上春樹文学の英訳で知られるジェイ・ルービン氏が夏目漱石の『坑夫』の翻訳について、ヒロコ・コカリル氏が初期漱石における「〜ている」表現の意義について、柴田元幸氏が古典の翻訳と現代文学の翻訳をフィッツジェラルドサリンジャーの実例を挙げながら、それぞれ明快に説明した。
 午後にも少女文学をめぐるパネルなど興味深いものが多かったのだが、さすがに時差ボケがひどく、われらふたりは学食でランチを済ませると、いったんホテルへ戻って爆睡。夜、起き出して湾岸へ赴き、シドニー・オペラハウスを一望のもとに収めるレストラン「キー」(Quay)の二階でシーフードとワイン。


7月 15日(水曜日) 
  正午にパネル司会のレベッカ(写真右端)にディスカッサントを勤めていただくクイーンズランド大学上級講師の青山友子氏(写真中央右)を加え、ランチかたがた打ち合わせ。青山氏はお茶の水女子大学ではフェミニズム理論で著名な竹村和子氏の同級生で、ごく最近、『近現代日本文学における食べ物を読む』( Reading Food in Modern Japanese Literature)なる浩瀚な書物をハワイ大学出版会から上梓されたばかり。谷崎潤一郎から林芙美子岡本かの子村井弦斎沼正三にまでおよぶダイナミックな射程の研究書だが、そこには、かつてわたしが開高健の『日本三文オペラ』や小松左京の『日本アパッチ族』の系譜を論じた『日本変流文学』(新潮社、 1998年)まで引用されていて驚く。たしかに、食べ物という点からすれば、開高健の悪食趣味も小松左京描く「食鉄民族」も、戦後日本文学ならではのユニークな側面を浮き彫りにするかもしれない。
 その直後、このおふたりの小さな出版記念パーティ( Book Launch)がロビーで行われるので、わたしが司会。青山氏の本についてはメルボルン大学のヴェラ・マッキー氏が、レベッカの本についてはわたし自身が紹介して、それぞれに著者本人がスピーチを付した。
 そして 3時 45分、マシューズ館 102号室より、いよいよ「環太平洋アヴァン・ポップ」。基本的に使った草稿は、四月にアマースト大学で行った小谷真理とのジョイント講演と同じだが、わたしの「ポーと乱歩」は今回、必ずしも坂手洋二の『屋根裏』論を中心にはせず、佐藤嗣麻子監督の怪人二十面相映画の最新作『 K-20』から 19世紀作家ポーへさかのぼる方向で、黒田藩プレスの『江戸川乱歩読本』序文のほうに準拠した。小谷氏の『下妻物語』論も、昨今では前述のヴェラ・マッキー氏による強力な再論がなされ、それは畏友にして大正エログロナンセンスの権威マーク・ドリスコルも高く評価するところであり、明らかに日米比較文化論の土壌が豊かになっている感触を得る。
 だが、今回いちばんの収穫だったのは、事前に徹底してメーリングリストにて準備したせいか、ディスカッサントの青山氏があらかじめ討議事項を用意してくださり、われわれは自らの草稿に加え、討議事項への応答をも、事前に熟慮する余裕が与えられたことである。これもまた、デジタル文化ならではの賜物というべきか。
 まずわたしに対する質問としては、ポーと乱歩の影響関係にボードレールのみならずドストエフスキーが介在するなら環太平洋的とともにユーラシア的アヴァン・ポップも可能ではないか、というところから始まり、ポー批評史がどうやら家父長制的言説に左右されているのではないか、具体的に男性批評家ばかりが目立つように思う、という率直にして鋭利な問いが投げかけられた。これに対しては、ナボコフシュヴァンクマイエルとともに、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの手記』に啓発された我が国の大岡昇平が『野火』を書き、それがさらに J・ G・バラードの初期破滅四部作へ影響したことを指摘しながら、そもそもアヴァン・ポップ提唱者が沖縄育ちのアメリカ人ラリイ・マキャフリイだったため環太平洋的に開始せざるをえなかった事情を説明。また、ポー批評における家父長制的言説の支配については、昨今の女性批評家の台頭からするに必ずしもそう言い切れるものではなく、たとえばポー未完の遺作「灯台」(1849年)をモチーフにしたジョイス・キャロル・オーツの最新中篇「死後のポー」“Poe Posthumous”( 2008年)などは、おそらくレイ・ブラッドベリの「霧笛」( 1951年)やロバート・ブロックによるオマージュ「灯台」( 1953年)をはさんだうえでのフェミニスト的文学実験であり、オーツなりのエログロナンセンスの試みではないかと回答した。
 つぎに『下妻物語』をヒロイン桃子の父であるダメオヤジの立場から見て行ったらどうなるか、彼こそは人形使いなのではないか、そもそもコスプレの起源には日本語でいう「かぶく」(広辞苑では「?傾く。頭を傾ける。?自由奔放に振舞う?異様な身なりをする。人の目に付く衣装を身に付ける。?歌舞伎をする」)に関わるのではないか、というたいへんおもしろい見解が出され、小谷氏はこう応答した。
 「まず第一点、桃子が父について行ったのは、「おもしろそうだから」という理由です。母親の連れ子になるという運命はけっこうたいへんそうだから、ということもあったでしょう。ダメな父親と桃子は、「男」という枠組みからおちこぼれてしまった父と、過剰に少女的、つまり赤ちゃん的な服装世界へと入り込んだ、逸脱した娘なのです。ふたりをつないでいるのは、逸脱性であり、脱落者の開き直りと言えるでしょうか。ただし、父親や母親はなんらかのかたちで、つねに社会的な成功をめざそうとする意欲を失ってないのに対して、桃子にはそもそもそうした認識はないようですね。
 桃子の父は、コスプレイヤーとしての彼女の運命のきっかけになっており、たしかに物語学的には人形使い的な立場にいます。しかしそこに従来のような、人形と人形使いの因果関係は稀薄ではないでしょうか。人形使いが人形を動かしている、というよりは、人形が人形使いという存在を浮かび上がらせているように見える、ということではないでしょうか。ここには一種、因果関係の逆転があるように思うのです。
 つぎに第二点、「かぶく」の意味が、辞書の文言通りであるなら、たしかにコスプレは意味が重なります。古来から、人が与えられた文脈を外れる服装をするという現象は、比較的よく見受けられたものです。青山先生ご指摘の、古事記に登場するヤマトタケルのエピソードは、部分女装ではなく、下着からすべて女性の服を着用した完全女装の例ですね。
 女装もコスプレも異装であることに変わりはありません。女装界で、コスプレがもっとも地位が低く見られていることからも言えるように、その現象は複雑をきわめています。
 そもそもコスプレという名称は、 1970年代の後半、アニメ人気とともに広まりました。
 アニメは子ども向きの二次元の世界ですが、コスプレはそれを一般社会の三次元的存在である人間が、アニメの文脈を外して実体化させてしまった現象です。その意味では、これほどに奇異でスキャンダラスな行為もありません。しかしながらアニメ人気とともに、アニメのキャラクターのコスチュームを着る事も人気となり、広範囲に広がったのです。
 コスプレが人気を呼ぶに連れて、服装がTPO、つまり文脈と密接な関係をもつという認識も明確になり、一般的な服装のルールを再考する動きが活発化しました。そこで、たとえば、サラリーマンの服装も、ひとつのコスプレである、と捉える文脈も出てきたのです。
 現代のユニセックスな服装の中で生きている女性が、女性的な役割を強いられたり、楽しんだりする場所へ出かけるときに、「今日は女装でいくか」と言うのも、そのひとつの例でしょう(湯山玲子『女装する女』 [新潮新書])。
 ただしコスプレといった場合、一般的には服装のファンタジー度が強いものを指す事が多く、そのファンタジー性は、浮世離れしすぎて、現実社会では普通見ることができない程度のものが少なくありません。
 わたしが『下妻物語』論で述べたのは、コスプレのキャンプ的な可能性です。コスプレは、その遊戯性によって服装文化の約束事を問い直す装置ではないでしょうか。
 さいごに第三点、まちがいなく刺繍は『下妻物語』のなかでは重要な位置を占めています。刺繍は女性の手仕事であり、長い歴史的な洗練度によって、独特の女性的美学を獲得したもの、といっても過言ではありません。
 『下妻物語』のなかで桃子が、イチゴのためにがんばって刺繍を完成させるいっぽう、磯部から刺繍を仕事として依頼されながら完成できない、というエピソードは、たしかに象徴的です。
 なお、多くのゴスロリ、ロリ、あるいはコスプレの服は、一般的な規格をあまりに外れるものであるため、手作りなのが大多数です。げんにゴスロリの専門雑誌『ゴシック・ロリータ』では、型紙がついていますから」。
 こうして 5時 15分、一時間半に及んだパネルはぶじ終了。気がついてみると小さな教室に 40名ほどがぎっしり集合し、終了後にはフロアから若い質問者とか写真を一緒に撮りたい人とか押し寄せて、まことに盛況であった。以後、レベッカ本人の勤務するシドニー大学で行われる晩餐会へ。米国のアイヴィーリーグ校と同じく英国オックスブリッジを模した建築は荘厳なもので、ディナーとスピーチ、そしてピアノ・パフォーマンスを満喫した。(写真中央:小谷真理氏、右:オーストラリア国立大学で日本現代詩を専攻するキャロル・ヘイズ教授)



7月 16日(水曜日)
 ほんとうは学会はこの日も続き、とくに午後には畏友スーザン・ネイピアや『ジャパナメリカ』の著者ローランド・ケルツらの出演する「ソフトパワーと日本」なるパネルも予定されていたのだが、さすがにくたびれて昼近くまで爆睡。そのあとサーキュラー・キーへ繰り出しランチのあと、繁華街として知られるジョージ・ストリートをウィンドウ・ショッピング。
 しかし、この対岸から見詰めれば見詰めるほどに、ベネロングポイントなる岬に建つ、シェル屋根技術を駆使した世界有数の建築シドニー・オペラハウスが気になり、フェリー発着場を廻って足を運ぶ。じっさい館内ツアーに参加して説明を聞けば聞くほどに、 1957年のコンペでデンマーク人建築家ヨーン・ウツソンが勝ち抜いてから 1973年の完成に至るまで、ときに建築と彫刻を合わせた「彫築」とも揶揄され、かのフランク・ロイド・ライトバックミンスター・フラーからも悪評ふんぷんだったオペラハウスの歴史が現代史そのものの戯画のように実感されてならなかった。なにしろ1965年のオーストラリア選挙で労働党自由党・地方党連合に敗北したあげくの政権交代に伴い、政府と建築家にして総監督ウツソンとはついに決裂し、彼は帰国して昨年没するまで、ついにシドニーの地を再び踏むことはなかったという。にもかかわらず、おびただしい苦難を経て、ようやく仕上がった傑作は、日本でいえば菊竹清訓の混成構造を思わせる SF的怪物であり、建築ジャーナリスト磯達雄氏の言葉を借りれば「プログレ建築」とでも呼べるだろうか。(http://blog.mosaki.com/?eid=305370

 360度どこから見てもすがたかたちが変わって見えるオペラハウスは、ときにステゴザウルスのようでもありマンモスフラワーのようでもあり、あたかもブラッドベリの「霧笛」クライマックスを集約したかのごとき様相なのだ。
 夕暮れ、付近のオペラバーでワインを傾け、ベルギー料理店でオイスターに舌鼓を打つ。このとき夜景の中に幻想的に浮かび上がったオペラハウスは、ちょうど読んでいたチャイナ・ミエヴィルの『ペルディート・ストリート・ステーション』に登場するモスラ的怪物スレイク・モスを彷彿とさせたものだった。
 9時55分、シドニー空港発。機内泊にて翌日 7月 17日早朝6時 55分、成田空港着。