#25-3. 歳末シンポジウム1: 「日本文学を読みなおす、女性作家の視点から」

:それでは、記憶が定かなうちに、いちばん最近、昨年末にわれわれが関わったシンポジウムに限って、報告しておきましょうか。
 まず、小谷さんは自ら委員長を務める日本ペンクラブ女性作家委員会のシンポジウム「日本文学を読みなおす、女性作家の視点から」が、わたしは企画委員を務める慶應義塾大学藝文学会の「人造美女は可能か?」シンポジウムがあったわけですけど。

小谷:毎年暮れにやっている日本ペンクラブの女性作家委員会シンポジウムのほうは、去年と同じく青山学院大学の正面にある東京ウイメンズ・プラザ(渋谷区神宮前)ホールで、12月9日(金)の夕方より行われました。
 開会挨拶はもちろん副会長の下重暁子氏で、第一部は、小学館刊『テーマで読み解く日本の文学──現代女性作家の試み』(上下2巻)の編集に直接関わった津島佑子氏から、同書に関わるにいたった経緯をご自分の文学的関心と絡めてお話いただいたんですね。聞き手は、女性作家委員会の茅野裕城子副委員長。
 津島さんは、さっぱりとした快活なかたで、お話も明快でした。70年代はじめに小説を書き始めたころの文壇では、川端康成三島由紀夫知名度といった点では双璧だったそうです。その一方でウーマン・リブの運動があり、フェミニズム的な視点が顕著になってきて、少数民族や女性にとっての文学はそうした文壇の流れとは異なるのではないかと思うようになり、そんなところから、30代の女性を主人にして、想像妊娠を主題にした「寵児」という作品を発表したそうです。当時シングルマザーということばもなかったころですから、たいへん「衝撃的」に受け止められたというわけなんですね。
 いまでは考えられないことですけど、当時の日本社会では、女性は「母」になることが当然とされ、「お母さん」は、恋愛にも性愛にも無縁な存在という思いこみが強かったそうです。でも、30代や40代の女性にだって、恋愛はあり得るし、セックスをともなう恋愛では、とうぜん妊娠・出産といったことも起こりうるわけですよね。津島さんは、それをごく自然にとりあげたのでしょう。でも、女性がごく自然に思ったことを描くと、周囲がびっくりしてしまう(笑)。女性のライフスタイルが一般的に伝達され評価されていない事情がよくわかります。女性の書いた物に対する周囲の評価って、社会状況ととても関係があるのですよ、という指摘は身につまされましたね。
 あと、津島さんのフットワークのよさも印象的でした。津島さんは国際的にもとても評価が高いので、世界のあちこちへでかけていかれ、その過程でアジアのなかの日本という視点をえられたことが、ご自身でアジアの作家との交流としての作家会議をたちあげるきっかけになったと話してらっしゃいました。で、さらに、こうしたアジアの国々での見聞や体験が、こんどは日本国内のアイヌ口承文芸への関心へと繋がっていくいきさつがあったとか。『テーマで読み解く日本の文学──現代女性作家の試み』では、そんなわけで、口承文芸に関するエッセイをよせておられます。同書は、学者でもなく、女性の文学者が古典について自由に書いていくというスタイルがとても魅力的な本で、おりにふれて読み直すと、とても発見が多いです。
 実は押井守監督の『イノセンス』以降、わたしの心は、日本海沿岸文化の流れに非常に目が開かれて心惹かれるようになったのですが、津島さんの話はそうした興味にふれるところもあって、本当におもしろく聞きました。
 第二部は、津島氏を中心に、上記作品に執筆者でもある稲葉真弓氏、荻野アンナ氏、茅野裕城子氏が加わり、各人が執筆・担当した部分の説明をしながら、日本文学に関する従来の評価や視点についての問題点を検討しました。でも、かたくるしさはなくて、女のおしゃべりってかんじ。本と関わるのはこんなにも楽しいという雰囲気が濃厚でしたね。それに、お金の話で盛り上がったのもおもしろかった。稲葉さんが芭蕉を読みながら、「この人、どうやって旅費出していたのかな」ってより具体的なことに想像力をはたらかせていったという話や、樋口一葉の日記を読んだ茅野さんが「もーつねに、お金がないお金がない」って書いてあるけど、けっこう優雅な生活もしているのよ、つまり貧乏という意味が、あたしたちのとズレているんじゃない?」なんて、けっこう言いたい放題(笑)。荻野さんが、最後には女性作家を軸にして「文学における金銭感覚」というか「金銭感覚批評」を探求するべきではないか、なんてゲキとばしたり。なかなか舌鋒するどくたのしい「文学談義」が続きました。古典の楽しみのひとつが、現代とどう関わるかを考えることであるのを実感した次第です(笑)。

:「文学と経済」という話題ならいくらでも扱われていますが、「文学と金銭感覚」というのは斬新な話題でした。みなさん意気投合した感じが伝わってきましたよ。
 そういえば、シンポジウムの流れとは裏腹に、12月12日19時32分共同通信配信のインターネット版ニュース速報では、「『ジェンダー』使わないで 自民PTが安倍氏に要請」というショッキングなニュースが流れましたね。 自民党の「過激な性教育ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」の逢沢一郎座長が12日午後、首相官邸安倍晋三官房長官に、2006年度からの新たな男女共同参画基本計画で「ジェンダー」の言葉を使わないよう求める要望書を手渡したのですが、そこには「学校など教育現場で社会的な性差別を見直す「ジェンダーフリー」の名の下に過激な性教育などが行われている」という指摘が含まれていたそうです。
 わたしはちょうど、女性作家シンポジウムのパンフレットに、去る2005年11月初旬、北米におけるアメリカ学会年次大会に出席するため、ワシントン DCに飛んだときの最先端ジェンダー革命を目撃したときのことを短いエッセイにして寄稿したばかりだったので、ショックも大きかったな。
 会場兼宿舎がワシントン・ルネッサンス・ホテルだったんですが、そこの洗面所のドアというドアに、たいへん興味深い注意書きを発見したんですよ。何と “Gender Neutral Restroom”と明記されていたんです。たんに男女共用の意味なら人気TVドラマ『アリー・マイ・ラブ』に倣って“unisex bathroom”と書くはずでしょう。どうも不思議だ、と思っていたら案の定、会議席上でも話題が出て、前会長のスタンフォード大学教授シェリー・フィシュキンが、この “Gender Neutral”とは同性愛や服装倒錯の市民を考慮したうえでの表現であることを説明してくれました。一昨年以来、ブッシュ大統領マサチューセッツ州における同性愛結婚許容には断固反対の立場を譲っていませんが、性解放ならぬ性差解放をめぐる草の根運動は、すでに意外なところから始まっているのかもしれないと実感していた矢先に、我が国では、おそらくは女帝問題とからんで「ジェンダー」という単語さえ使ってはいけない、というのですから問題です。お茶の水大ジェンダー研究所もジェンダーSF研究会もぜんぶ引っかかってくる。

小谷:“「ジェンダー」という単語さえ使ってはいけない” 云々というニュースには正直仰天しましたね。わたしの属しているジェンダーSF研究会は、どうなるの? 明日から、地下活動、つか『光る風』(笑)? あまりに非現実的で。たまげたついでに、それまでちらほら聞こえていたアンチ・ジェンダーフリーのバッシングの現状をじっくり洗ってみたのですが、これはたいへんなことになっていると思いましたね。
言論の自由を弾圧し、女性の権利を剥奪する由々しき事態」っていうのが、本当に絵空事じゃないんだなって動かぬ証拠がでてきた感じ。ジェンダー・フリー教育への批判とバッシング言説のなかに、事実と食い違う捏造記事が多いのも気になりました。ちゃんと実証できるのか、風評だけが声高に叫ばれて流れているウソなのか、これからゆっくりじっくり検証していくべきでしょうね。この捏造された情報の出所とその使われ方に、非常に興味があります。テクハラ構造と関係があるのかな、とも思うし。ジェンダージェンダーフリーということばの意味を、今の政治家に国会で抜き打ちで筆記試験してみたら、みなさん、どういう記述でお答えになるのかなとか切実に考えちゃうほど(笑)、常軌を逸している状況です。
 それと気になったのが、日本語自体が貧しい方角へ向かっているんだなという哀しい実感ね。これはみすずの「理想の教室」のシンポジウムでも話したことだけど、今は大学の「文学部」や「文学」にとってはキツイ時代と聞きました。わたしは文学者ではないのでストレートに言わせてもらうけど、文学が不必要かっていうとそんなことはないと思う。コミュニケーションの基本というのは文学にしかできないことだから。理系の解説書で、本当になに言ってるのかわかんない文章があってアタマかかえたことがあるけど、ヒトにものを伝える基本の基本は文学だし。字面だけ追っかけて理解したつもりになっているんじゃ、ヒトとちゃんとつきあえない。読解力っていうか、文字の向こう側で起こっていることを理解するのは、文学的な訓練しかないんじゃないのかな。いや、マジで。

テーマで読み解く日本の文学〈上〉―現代女性作家の試みテーマで読み解く日本の文学〈上〉―現代女性作家の試み
大庭 みな子

小学館 2004-05

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