#28-3 [特別編] スタンフォード便り

大学のPCシステム移行期にあたりCPA Monthlyの更新が長い間できずにいましたことを皆様にお詫び申し上げます。大変長らくお待たせしました!巽先生の2009年サバティカル・イヤー講演旅行記続編です![編集部記]


スタンフォード便り―2009年8月〜9月―






シリコンヴァレーの谷間で


 今年の夏はフルブライト研究員としてアメリカ西海岸はサンフランシスコの最寄り、いわゆるシリコンヴァレーに近いスタンフォード大学に所属している。 8月前半は、受け入れ先のスタンフォード大学アメリカ研究科長シェリー・フィッシャー・フィシュキン教授宅が長期出張のため空くというので転がりこんでいたが、後半、 8月 28日(金曜日)からはひょんなことで縁があり、大学付近のカル・トレイン鉄道パロ・アルト駅前、繁華街ユニヴァーシティ・アヴェニュー真裏に位置するプール付き豪華マンション(コンドミニアム)の一室を格安で借り受けることになった(写真参照)。紹介してくれたのは、小谷真理氏が毎年足を運んでいる中西部はウィスコンシン州 SF大会ウィスコンの常連で、ここスタンフォード周辺に住み、やはりシリコンヴァレーで働くアレン・ボーム氏。何でも、ボーム氏の弟の元彼女(アメリカ人)の現ダンナがトルコ人で、夏休みのあいだは一家でイスタンブールに戻るため、アメリカ側の住居は空いているのだという。かくしてわれわれは、ここに 9月 16日まで三週間ほど滞在することになる。当初は、まさか 8月末の選挙の結果、スタンフォード大学にて学位を取得した民主党代表が新しい首相になるとは、予想もしていなかった。
 ただし9月初旬は一時的にスタンフォード大学を離れ、ニューヨーク州北部の母校コーネル大学と同じカリフォルニア州ベイエリアだがスタンフォードの対岸に位置するカリフォルニア大学バークレー校にて講演。
 以下、個人的なロード日記から抜粋しよう。


母校コーネル大学講演


9月2日(水曜日)
 朝 10時、ニューヨークの中心マンハッタンからニューヨーク州北部の田舎町イサカへ 、合計 5時間のドライブ。運転手は三田大学院の教え子で、現在は慶應義塾法学部准教授としてコロンビア大学に留学中の大和田俊之君。彼の手配によるレンタカーVOLVOで夫婦二組の珍道中。
 夕方 5時にコーネル大学到着後、さっそく人文学研究所 にして大学創設者のひとりの名前を冠した A・ D・ホワイト・ハウスに挨拶に行き(ホワイトは岩波新書で名著『科学と宗教の闘争』を読むことができる)、その邸内の美しく整ったヴィクトリア朝風ゲストルームに案内してもらう(写真参照:中央ブレット・デュバリー教授)。以前ここにいたときは大学院生であったから、当時は人文研所長であった指導教授のジョナサン・カラーと面談したり口頭試問を受けたり、サミュエル・ディレイニーやガヤトリ・スピヴァックの授業に出たりする以外は縁のなかった場所なので、まさかこの建物内部に自分が宿泊する日が来るとは思わなかった。このゲストルームは、かつてジャック・デリダポール・ド・マンエドワード・サイード、ユルゲン・ハーバーマスらも泊ったことでも知られている。




9月3日(木曜日)
 コーネル大学講演当日。講演原稿そのものは四月にイエール大学でやった“Planetary Coincidences:Melville、KubrickKomatsu”とほぼ同じなのだが、やはり母校で正式に組まれた公開講演ゆえに、いつもより緊張する。
  11時に今回の招聘元である東アジア学科のブレット・ドゥバリー教授とともに、人文研裏のカフェRed Barnへ。トマス・ピンチョン学者モリー・ハイト教授の教え子でサイバーパンクを研究しているという英文科四年女子学生ローレン・バルバトーと面談してくれ、という依頼なのだ。利発な子ではあったが、いまどきの学生のご多分に漏れず、まずは『マトリックス』から『ニューロマンサー』に入っており、ラリイ・マキャフリイの本など読んでもいないようだったので、主として文献指導。
 それにしてもーー 1980年代半ばにわたし自身が大学院生だったときのブレットといえば、夏目漱石大江健三郎といった主流文学に加え柄谷行人の翻訳に精を出す硬派の文学研究者だったが、いまやクールジャパンの隆盛を経てサイバーパンク専攻学生の面倒まで見ているのだから、それがいちばんの驚きであった。その理由は、午後になって判明する。
 なにしろ、ランチをはさみ、人文研隣のユーリス・ホールで行なわれる彼女の授業「日本における文学とメディア」 “Literature and Media in Japan”に参加したところ、大学院生中心というのに、その人数がハンパではないのだ。 学期始めということもあるのか、とくに日本語を習得していなくても受講できるせいか、小さなセミナー室に 30名ほどがぎっしり詰まって椅子が足りない。今回の授業に限っては、ブレットの提案で、講演前にわたしの仕事をめぐり紹介しつつ討議するという序論的な形式が採用された。1980年代半ば、わたしがコーネルに留学していた脱構築全盛時代と 21世紀現在の日本的ポップカルチュア全盛時代とではいかに違うか、かつては文学史的古典が特権化されたいっぽう今日では最新の現代文学が特権化されているのはなぜか,そうした文化的移行期を身をもって体験した自分がいかに専門の19世紀アメリカ文学研究とサイバーパンク、サイボーグ・フェミニズム以降の現在進行形文化研究との折り合いをつけてきたかを、半ば自伝的に説明した。「わたしがコーネルを卒業したのは、君たちの大半が生まれる前です」と切り出したら、大爆笑の渦だった。
 そう、わたしが学位論文を仕上げてコーネルを去る 1987年 3月といえば、スティーヴ・ブラウンらと共同編集し創刊したばかりのサイバーパンク批評誌『 SFアイ』が出たのでそれを一部、ブレットに謹呈した記憶が昨日のように生々しいが、以後 22年が経ち、まさかあのときの雑誌が文化研究の第一級資料としてブレット本人から言及される時代が来ようとは、夢にも思わなかった。 1980年代の脱構築批評は、理論上はまぎれもなくハイカルチャーポップカルチャーの範疇解体を含んでおり、それは新世紀におけるクールジャパンの普及をも促すけれども、にもかかわらず当時の中心的な脱構築批評家たちがハイカルチャーに留まったのは皮肉である。 
 4時半より、同じユーリス・ホールの地下G08教室にて、ほぼ同数の規模で講演。質問としては「サイボーグとは何か」「人種の意義はどうなるのか」といった基礎的なものが多かったのでハラウェイの定義を繰り返し紹介するだけでも充分だったが、それをブレットがうまく「サイバーパンク以降のエキゾティシズム表象の類型問題」の方向へ誘導してくれたので、「さゆり」の例やアメリカ産オリジナル寿司などを引いて例証。じっさい最近のアメリカ独自の「パニック寿司」(これはスタンフォード大学政治学教授ジェイムズ・フィシュキンと話していたら飛び出した造語)には、かつてのカリフォルニア・ロールなど古典的定番になっているぐらいで、いまや天ぷらをぶっ込んでクランベリーソースをかけた「サンセット・ロール」を極北とし「スパイダー・ロール」や「クレイジーガールズ」、「ジャズロール」に「ロックンロール」などなど、たんなるオリエンタリズムにはとどまらぬ暴走具合が小気味のいい悪趣味を醸し出しており、このように模倣と創造、破壊と再搾取をくりかえし全地球的に循環し続けるまったく新たな日本趣味文化を抜きにして「現代における人種問題」は語れないからである。


コーネル大学講演後パーティにて:奥にブレット・デュバリー&ヴィクター・ニー夫妻、
左側が小谷真理氏をはさんで大和田俊之&榎本明日香夫妻


カリフォルニア大学バークレー校講演


9月8日(火曜日)
 午後にクルマで移動し、サンフランシスコ市内を通り、壮大なる金門橋を渡る。小谷真理のたっての希望で、むかしコーネル大学時代の旧友カズコ・ベアレンズに連れて行ってもらったお洒落な街サウサリートを再訪。
 そのあとリッチモンド=サン・ラファエル橋を渡り、オークランドにて、現在カリフォルニア大学バークレー校で英文学科長を勤めるコーネル時代の級友サミュエル・オッター&キャヴァリー・キャリー夫妻とSoi 4でタイメシ。のち、招聘元の同大学映画学科准教授ミリアム・サスの家へ転がり込む。


9月9日(水曜日)
 講演当日。ミリアムの二歳半の双子男子が絶叫し始めて、目を覚ます。
 双子の名前は上がベケット( Beckett 、もちろんモダニズム芸術専攻のミリアムゆえサミュエル・ベケットに由来しており渾名は「ベケぞう」)、下がヤイル(Yair、ミリアムはユダヤ系のため「啓蒙」を意味する名誉ある名前らしいが渾名は「ヤイちゃん」)。夫のポールとはみごとに時間分担で世話しており、仕事や教育との両立に感心することしきり。
 午前中は時間があったため、ポールが クルマでバークレー市内の主要スポットを案内してくれる。コーヒーが絶品というCheese Boardでコーヒーを買い、スターバックスの起原というPeet's(写真参照:右ミリアム・サス氏)で二杯目を飲み、テレグラフ・アベニュー随一という四階建て書店Moe'sに立ち寄る。そのあたりでミリアムと合流し、大学の東アジア学科でペーパーワーク。昼にはミリアムのオフィスで軽いランチかたがた講演準備。
 1時から映画専攻大学院ゼミで小谷真理とジョイント講演。正規の学生に加えミリアムの同僚で明治文学専攻のダン・オニール、演劇専攻でコーネル大学人文研究所所長のティム・マレー教授の娘アシュリー、サンフランシスコ州立大学勤務のセス・ジャコボウィッツらが加わり、総勢30名ほど。
 例によってわたしが「ポーと乱歩」、小谷真理が「下妻物語」と分担したが、意外にこの組み合わせは悪くないようで、デジタル時代のゴシックについて、プレモダンとモダニズム批判の関連について、日本製カニサンドウィッチとアメリカ製オリジナル寿司をめぐる類型化と歪曲化について、『電車男』について、コスプレとゴスロリのちがいについて、ロココ・ファッションと江戸時代のナショナリズムについて、ゴスロリ・ファッションと着物趣味、およびそれらをめぐる女性限定の解釈共同体についてなどなど、興味深い議論が続出し、討議は予定時間を大幅に過ぎる。このときわたしが、日本語はできないながら「心の中の日本」を愛してやまぬアメリカ人親日家を指して「日本趣味的原理主義者」“Japanophilic Fundamentalist”と呼んでしまったことが、議論が止まらなくなった一因と思われる。
 そのため討議は講演後も、キャンパス付近のカフェでの懇親会(写真参照)にまで持ち越される。ここでも最近の映画“District 9”や”“Love Exposure,”それにやおいボーイズラブよしながふみの『大奥』まで話題が続出し、一時間ほど歓談。コーネルのときも感じたが、インターネット勃興以後、全世界的な経済格差はおくとしても、日米の情報格差はほんとうに縮小してしまったようだ。中には本格的に映画評論家を目指しネット映画評でも健筆をふるう血気盛んな院生ファリード・ベン=ユーセフ君もいて、頼もしい限り。
 このあと、ミリアムは家で料理するというので、われわれはテレグラフ・アベニューを銀ブラ。8時ごろ、双子持参のポールが迎えに来て、ミリアム邸でダン・オニールも交えディナー。たいへん充実した一日であり、夏休み講演シリーズのフィナーレであった。


ベイエリアの日は暮れて


9月12日(土曜日)
 旧知の友人であり、かつてファット・フェミニズム写真集で話題を呼んだ写真家ローリー・エディスンがサンフランシスコ市内に出てこないかと言うので、小谷真理と初めて、コンドミニアム正面のパロアルト駅より5時半の電車カルトレイン(CalTrain)に乗る。市内のヴァラエティ・プレビュー・ルーム・シアターで行われた作家ナロ・ホプキンスンとマイケル・カークランドの朗読会に出席。タキオン社の主催で月一のイベント・シリーズ “SF in SF”( Science Fiction in San Franciscoの略)の一環。(http://www.sfinsf.org/?p=983
 司会進行はテリ・ビッスン。ローリーはもちろん、デビー・ノトキン夫妻やリチャード・ダッチャー、エレン・クレージスら、ウィスコンでもおなじみの顔ぶれが勢揃いしていたので、旧交を暖める。
 ほんとうは打ち上げにも参加したいところだったが、今回は電車利用のため10時15分の便をつかまえて帰る。


9月13日(日曜日)
 9時半にトマス・アクィナス教会のミサ。献金に間に合わなかったので、ミサ終了後、教会がプロモートする地球温暖化警戒バッグに一ドル寄付。そのあとスタバにてニューヨークタイムズ日曜版とオレンジジュースを購入して帰宅。
 11時半、畏友ラリイ・マキャフリイとシンダ・グレゴリー来る(写真参照:「恐竜と遊ぶ」)。彼らの息子マイケル夫妻がパロ・アルトからはほんの二駅サンフランシスコ寄りのサン・カルロスに住んでいるので、孫娘エラに会うため、月に一回は泊まり込んでいるらしい。先週の日曜日にアイリーン・ガンたちとドライブしたのと同じ方向で海岸沿いの町ペスカデーロへ赴き、今回はカードやアクセサリーなどお土産を買い、カフェで歓談。シンダはつい最近、ネットを通して生別れのお兄さん(異母兄)と初対面を遂げ、相性もよく、家族ぐるみの付き合いが始まったらしい。コーヒーを飲み終わると、ハーフムーン・ベイまで行ってサムズ・チャウダー・ハウスでクラムチャウダーとロブスター・サンドウィッチを注文したが、特に後者はあまりに絶品で驚くことしきり。
 このときわたしが、今回の滞在では多忙のため映画ひとつ見られなかったというと、ラリイがタランティーノの最新作に行くか、と言い出し、途中で息子夫妻と孫娘のいるサン・カルロスの家へ立ち寄ってから、最寄りの映画館へ。“Inglourious Basterds”(タランティーノ自身の思惑で故意に綴りを誤っているところに注目)は期待に違わず、観客によってはその残虐描写でとことん不愉快になることまちがいのない論争挑発作品だが、映画館仕掛けでヒトラーナチス一党をまるごと暗殺するという計画がフランス系ユダヤ人やアメリカ系ユダヤ人など複数のテロリストの手で刻々と進んでいく緊張感がすばらしい。ブラッド・ピットはやはり悪役のほうが似合う。もっとも、本作品のように世界の常識がひっくりかえった設定では、そもそも伝統的に言う善玉が存在しないのだけれども。いずれにせよ、これこそはディックの「高い城の男」やシェイボンの「ユダヤ警官同盟」を彷彿とさせる真っ正面からの歴史改変SFであり、タランティーノらしいアヴァン・ポップ映画であり、かつ最も新しいアパッチ映画の傑作であった。


9月14日(月曜日)
 11時に若手日本学者で昨年暮れには黒田藩プレスから英訳『江戸川乱歩読本』を出したセス・ジャコボウィッツが迎えに来てくれて、懸案のサンフランシスコ市内はジャパンタウンへ。リサーチに役立つかと思い歴史協会も訪れたが、ジャパンタウン自体ができたのが20世紀初頭であるため、わたしがいま調査しようとしているそれ以前の時代、つまり 19世紀後半金ぴか時代の移民史のことは、皆目検討がつかないらしい。ランチは紀伊國屋書店最寄りの「大阪」で済ませ、最新のビルNew Peopleにあふれかえるおたくアートを観察し、のちカフェテリア。
 夜は7時15分、スタンフォードでの受け入れ先であるアメリカ研究科長シェリー・フィッシャー・フィシュキン教授と、その夫君で同大学コミュニケーション学科教授であり、目下、討論型世論調査( deliberative opinion poll)の方法論による討議民主主義(deliberate democracy)を提唱し世界的注目を浴びている政治理論学者ジェイムズ・フィシュキン教授とともに、あと二日に迫ったわれわれの滞在終了の挨拶も兼ね、キャンパス最寄りのシーフード店Scott'sにて会食(写真参照)。話題は民主党新政権から日米文化落差に及ぶ。今年の暮れまでにジェイムズは二度、シェリーも一度は同行して来日予定というので、堅く再会を約す。