#24-3. SFは様々なものの名付け親である

高橋:そもそもSFがまだ広く世に受け入れられていない時に、それならば自分達で“場”をつくろうとしたのがSF同人誌の始まりと考えていいのですよね。手前味噌ですが、「あかね」も、お仕着せでない交流の場がないならば自前でつくろうという精神でやっているので、その辺に共通する何かがあるのではないかという気がするのですが。

:そうですね。私が1970年ごろからつくっていた『科学魔界』というのは最終的にSF批評中心になってしまった同人誌なのですが、60年代の同人誌にはプロのSF作家になるという意識を持って参加していた人が多かった。90年代には創作以外の分野(例えば批評)でプロになる人がでてきた。もともとファンジンというのはSFがやりだしたことで、今ではアメリカでは広く同人誌のことをZINと言いますが、最初はSF用語だった。

小谷:「おたく」が英語になる前にも NerdCouch Potato といったのがありましたからね。

高橋:カウチ・ポテトというとポテトチップスを食べながら延々とテレビを見ているような…。

:そうそう。アメリカのSF大会なんて4000人もの人が集まりますからね。で、家に帰るまで待ち切れずに大会会場で新刊のペーパーバックやファンジンを読みだす。まさにジャンク・フードを食べながらジャンク・フィクションを貪り続ける光景。

高橋:日本のコミケを髣髴させる風景ですね(笑)。そういえば「スター・ウォーズ」にそういうキャラがいたような…。

:そう、ジャバ・ザ・ハットはOtakuの典型像ですよ。NEW WAVEというのも60年代のJ・G・バラードの作品などをそう呼んでいたものが、後に音楽など広いジャンルで使われるようになりました。おたくというのも60年代初頭から、SFファンがお互いのことを「おたく」と呼びあっていたのを、後に中森明夫がそういうタイプの人間のことを「おたく」と定義して広めた、といういきさつがあります。日本において初めてファンジンをつくった柴野拓美さんの大岡山の家に最初にお邪魔したのは1970年、中学三年のときだったんですが、そのときの最初の会話で「おたく、あの本持ってる?」と訊ねられたことがある。同席した大田原さんも同様の喋り方だったんですが、いまにしてみるとSFファンダム独自の言語だったわけです。

高橋:なるほど。今ではアニメおたくのみならず、芸術おたく、政治おたく、スポーツおたく等、「おたく」という概念は様々な分野に転用されていることを考えあわせるとSFはネーミングの宝庫ですね。

:確か95年か96年にフランスで『おたく』というドキュメンタリー映画が発表されました。日本の「おたく」の生態を広い分野で探るドキュメンタリーでしたが、そういう映画ができるぐらいですからフランスのおたくはディープですよ。エチエンヌ・バラールの『オタク・ジャポニカ』(邦訳・河出書房新社)なる本もあるし。ちなみに、この本を訳した新島進君は慶応仏文出身にして慶応SF研出身、ロックバンドでも活躍してコスプレも得意、フランスで博士号取得して、いまはここ早稲田の非常勤講師をやっている。

高橋:(ダフト・パンク(注)フランスのテクノバンド を思い出し、深くうなずく。)

オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生
エチエンヌ バラール ´Etienne Barral 新島 進

河出書房新社 2000-05

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