#12 指輪物語、その他の物語

cpamonthly2002-02-27

巽孝之 昨年、『ハリー・ポッター』の話をしたと思ったら、今年に入るやいなや、トールキンの『指輪物語』第一部「旅の仲間」の映画化『ロード・オブ・ザ・リング』の試写が始まり、その話もしないわけにはいかなくなりました。近々、<ユリイカ>や<鳩よ!>でも企画があいつぐようだし。小谷さんはそれらの企画参加もさることながら、こんども劇場用プログラムブックにエッセイ寄稿して、まさに連日連投なんですね。聞けば、今回のプログラムブックは、本国側が介入してたいへん厳密なチェックを経たとか。

小谷真理 そうなんですよ。作家の息子であるクリストファー・トールキンがきわめて厳密な人だというのは聞いてたんですが、日本でも『ホビットの冒険』編註(原書房版)でおなじみの友人ダグラス・アンダーソンによれば、じっさいには遺族のほうじゃなくてトールキンエンタープライズのほうが神経質に検閲したみたいですね。だからあたしのエッセイもまず英訳されて、それをエンタープライズが読んでまずいことが書いてないかどうか徹底チェックして、それでようやく了承したみたい。まったく、いい年して資格試験でも受けさせられてるみたいに緊張しましたよ。
 でも、なにしろ映画がすばらしいですからねえ。原作の国盗り物語みたいなところを、じつによく表現してるし。

 わたしも試写会ご一緒させていただいて、いちばん感動したのはバルログが出てくるところです、円谷怪獣ファンとしてはこれはもう、絶対。
 もともとファンタジーのなかでもハイ・ファンタジーというのはあんまり得意じゃないんですが、ここんとこ小谷さんがあんまり忙しいんで、そのせいかどうか、とうとうこちらにまでお鉢が回ってきてしまいました。朝日新聞の『ロード・オブ・ザ・リング』映画評なんですが、記者の方に「ファンタジーあんまり詳しくないけど、いいですか」って言ったら、「むしろマニアではない、そういうかたにこそ、忌憚ない意見を書いていただきたい」といわれて。ところが依頼状にはしっかり「原作と映画を引き比べてどうなっているか論ぜよ」とかけっこうな注文が並んでる。しかたがない、ここは一念発起して、これまでは中途で挫折していたあの大長編全三部、文庫で全六巻を、このさいやっと読破したところです。
 でも、とくに瀬田貞二訳というのは、前日譚である『ホビットの冒険』の段階からそうですが、すべてをとことん日本語に移し替えようという意欲にあふれていて、野心的というかほとんど実験的といってもいいほどでたいへんおもしろい。妙にこなれた日本語なんで、最初まるっきり気がつかないんですけど。

小谷 そうそう、やっぱり「ミドルアース」は「中つ国」じゃないと、いまのトールキン・ファンは納得しないでしょう。アレ、葦原の中つ国からきている訳ですよねえ。すばらしい。

 うん、「中つ国」(Middle-Earth)もそうだけど、指輪を奪う怪物を「ゴクリ」(Gollum)、それにいちばんかっこいい剣士を「馳夫」(Strider)と呼ぶという具合に、すべてを日本語環境に定着させてますからねえ。
 とりわけ、わたしのような昭和30年代生まれがいちばん印象づけられたのは、ホビット一族の性格を表すのに、原語では「夜盗」とか「強盗」とか「不法居住者」とかを意味する"Burglar"があてられているのを、瀬田氏が「忍びの者」という、それこそ最大限に冒険的な訳語によって大胆に表現したところです。この表現は、『ホビットの冒険』(原著一九五一年)にうかがわれるんですが、たしかに指輪を獲得した者は、あたかも忍者のごとく、そのすがたをドロンと消すことができるから、そこだけとっても、これはハマリ訳のように見える。ただし瀬田氏は、指輪の機能を離れたところでもホビット族全般にきわめて広くこの性格を想定しているようなので、ひょっとしたらまさしく昭和30年代、すなわち1950年代後半から60年代にかけて山田風太郎忍法帖シリーズが人気絶頂を迎えていた波をあびているのかもしれない、と思わせるところがある。訳者はもうお亡くなりになってしまったので、いまとなっては訊ねることもできませんが。いずれにしても、トールキンホビット風太郎の忍者も、現実と非現実のあいだを綱渡りしつつ、自然と超自然のはざまで活躍する、人間とも超人ともつかない特殊な部族ですから、偶然とはいえ、そこに注目して積極的な類推を展開したのは、しかもそれが多くの愛読者獲得につながったのは、翻訳家冥利に尽きるんじゃないかな。
 もちろん、原語の"Burglar"そのものからは、どこをどうひっくりかえしても、「忍びの者」なんて意味は出てきません。いささか心配になってダグ・アンダーソンにも打診してみたんだけど、彼もこの単語をトールキンが特殊なかたちで使っているようには見えないし、むしろしっかり中世英文学をふまえてイメージしているはずだ、おそらく端的にはグリム童話に出てくる泥棒キャラあたりを想定してたんじゃないかという意見です。ただ、1960年代の読者にはよかったかもしれないけれど、1980年代レーガン政権時代に流行ったハリウッド忍者映画の連想からするといかがなものか、太ったビルボが忍者というのはみんな笑ってしまうのではないか、という留保を付けてはいましたけれども。

小谷 ダグは映画版には批判的なんですよね、せっかくのトールキン原作が持ってる奥深い部分を安っぽいハリウッド的イディオムに還元してしまった、ということで。わたしはけっこう大満足だったんですが。妖精画家のアラン・リー美術監督だから、わたし的にはお馴染みの指輪世界が目の前で動いてるという感動がありましたしね。特に指輪をはめた者が観る世界がむちゃくちゃかっこいいんですよ。黒の乗り手のかっこいいことといったら、ムアコックの『ストームブリンガー』を撮ってほしいっと思ったほどです。

 わたしもシロウトのせいか、あの冥王サウロンや黒の乗り手が登場するところの怖さはダース・ヴェイダーみたいで、わくわくしましたよ。てなこと、ひかわ玲子さんに言ったら、「そうじゃない、もともと『スター・ウォーズ』のほうが『指輪物語』をパクってるんだ」と叱られましたけど(笑)。まあ、ダグは筋金入りのトールキンおたくというか権威ですからねえ、「ピーター・ジャクソンの料理はおいしそうなスープみたいだけど、食べてみると栄養はないし味もよくない」なんて、言ってたなあ。
 でも彼がいちばん怒ってるのは、昨年年9月11日の同時多発テロのあと、けっきょく現実の恐怖から逃れたい気分があるから『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』が売れるんだ、とメディアが断定するようになった風潮のほうね。たしかに、1920年ジャズ・エイジ直後の大恐慌時代を例にとるまでもなく、政治経済面で国家が窮地に陥ると、空想的な物語よりも社会的な物語が再評価されるってことは、ありがちですから。そういうときに決まって、ファンタジーを代表とする想像力の文学がスケープゴートにされる。

小谷 そうそう、不況になるとファンタジー批判ね、これはもう、お約束みたいなもんで。そういや、1980年代初頭にはファンタジー汚染とかいわれたりもしたなあ。いやほんと、ありゃひどかった。こっちは、またかよ、いいかげんにしてくれよ、とひたすらあきれるだけなんだけど(笑)。

 ほかでも、年末から今年にかけては『アメリ』とか『メメント』とか『ムーラン・ルージュ』とか、なかなかの傑作を観る機会がありましたね。小谷さんは岩波書店の<世界>に映画評を連載することになったわけですけど、さて最近の邦画では、辻仁成監督の『フィラメント』を気に入ってたみたいですが。

小谷 やっぱり森村泰昌ありきの世界でしたから。ああいう父さん像って、日本的なヒーローの典型なんですよね。いつもは目立たない存在だけど、ハレの舞台では大活躍しちゃう。黄門様と同じだけで、キメの印籠が女装ってところが、よかった。彼にとっての女装は、彼の元を去った妻へのオマージュといったニュアンスなんだけど、それが娘の仇を打つための武器になっていくところが、おもしろい。男にとって女装ってなに?と常日頃から考えていた私にとって、なかなか考えさせるストーリー展開でしたね。
 <世界>連載の方は、第一回に『アメリ』について書きましたが、あっちはあっちで、ひきこもり系のメンタリティの人々の話になっている点、惹かれるものがあった。ま、相違ったら、『指輪物語』のホビット族なんて、ひきこもり的メンタリティの典型で、ホンネをいえば「冒険したくなーい、うちで毎日ご飯を六回食って、のんびり陽だまりでグダグダしたーい」という感じなのね。それなのに、大冒険にいかなきゃなんねえ。

 けっきょくは、彼らをしっかり守っているようでいて、じつはすべてをそそのかし冒険へかりたてる魔法使いのガンダルフのせいなんですね。まあ第二部「二つの塔」の後半になると、サム・ギャムジーが物語内部のキャラ役割談義とかをまくしたてるメタフィクション仕掛けのところもあるから、これはもう冒険がないと物語にならないと思っているトールキン本人が悪い(笑)。

小谷 うーんそうなのよ。ホビットってほんとはねえ、引きこもりたいけど冒険もしなくちゃお話にならない、そうしないとキャラ立ちできない仕方がない、ということでいやいや出かけるんだよねえ。あああああ、わかる、わかるよ、そのめんどくささ。…というところが、とっても身につまされますねぇ。
 ところで、身につまされたと言えば、教授の最新刊『リンカーンの世紀』(青土社)は、あれはなんなのでしょう、あの妻は。

 ああ、メアリ・トッド・リンカーン夫人のことですね。リンカーン大統領は自分のことをマクベスだと思ってるんだけど、ファーストレディたるメアリのほうは、その行状を見る限りマクベス夫人としかいいようがない。とにかくとんでもない上昇志向だし、夫には強く出るし、それに加えて、着るものには湯水のようにカネを注ぎ込む浪費家だったんですから。
 それで、リンカーン大統領を、とりわけ彼の暗殺を中心に据えると、アメリカ文学思想史のいろんな側面が浮かび上がってくるんじゃないか、というのがあの本のアイデアです。これは『ニュー・アメリカニズム』『アメリカン・ソドム』に続いてアメリカ文学思想史三部作を成す、と「あとがき」に書き加えるのを忘れてしまいました。なにしろ、一月の半ばだったかな、いったん「あとがき」を脱稿したら、その直後、マックがシステムダウンしちゃって。

小谷 あれはひどかったよね。データが一年分、飛んじゃったんですね。それで、どうにかこうにか復旧したんですか。

 まあOB山口恭司君とか現ゼミ代小林範子君とかいろんな人の協力で、現在復旧途上というか。でもあまりのショックで、せっかく書き上げていた「あとがき」も、もとの半分くらいの分量までしか思い出せなかったんですけど。

小谷 でもどっちにしろ、出版したあともいろいろ発見があるみたいだし。こないだ、大河ドラマの『利家とまつ』観て何かいってたじゃない。

 秀吉はリンカーンだってやつね。サルといわれてた点でも、立身出世の点でも。それだけじゃなくて、前回2月24日の回では、秀吉の妻おねが、とんでもない量の着物を買い込む浪費家だったというくだりがあって、ああこれ、メアリ・トッド・リンカーンとまったく同じだって思った。ダーウィンは秀吉の話をどこかで聞いたんですね、まちがいなく(笑)。

2/27/2002