#7 ロスト・イン・京都

cpamonthly2000-08-01

巽孝之 7 月末といったら、京都アメリカ研究夏期セミナーの季節と決まっています。この学会シリーズは長い伝統があって、1950年代以来、同志社大学北海道大学を舞台に開催されてきたんですが、96年からは立命館大学が開催校となり、わたしも同年には『コロンビア版アメリカ合衆国文学史』の編者エモリー・エリオット教授が文学史編纂の困難を語る講演「ミッション・インポシブル」へのコメンテーターを勤めました。
さて、今回はわたし自身が運営委員となり文学部門の企画を一任されたばかりか、同志社大学佐々木隆先生より「五年間、文学史の再考をやってきたんだからその締めくくりになるような学者を」と強く要請されたため、画策は難航をきわめまして、それこそ「ミッション・インポシブル2」とでもいえそうな苦労だったんですね(笑)。それでもいろいろ考えたあげく、ともあれ論考のおもしろさからいって女性SF批評家として名高いマーリーン・S・バー教授をゲストにお迎えすることに決定したわけです。ちょう ど 昨年、彼女の第三著書Lost in Spaceの邦訳『男たちの知らない女』(勁草書房)が刊行 されたこともあって、小谷真理さんを始め、栩木玲子さん、鈴木淑美さんなど共訳者三名全員がせいぞろいしましたね。参加者も大串尚代君を最年少に一気に若返った感じで、とても活発な意見が交わされ、なかなかたのしい会議になりました。 
小谷さんはかねがね、アカデミズムはいやじゃいやじゃといいながら、今年は何と、白百合女子大非常勤講師としてフェミニズムSFを毎週講じたりなさっておられるわけですけれども、いかがでしたか今回は。

小谷真理 イタタ……わたしなどがお招ばれしていいものかという気もして恐る恐るだっんですけど、非常に感じのよい会だなと思いましたね。

 内容的には、まず初日の7月28日午後にマーリーンが、出たばかりの新著Genre Fission (ジャンル核分裂)の結論部から抜粋しつつ、現在文化全般 の境界侵犯現象をブラ ック・ホールの隠喩を用いて読み解く基調講演を行い、そのあとの分科会ではわたしが 司会、小谷さんがコメンテーターという役回り。二日目29日はマーリーンの理論を応用 した若手の発表に関する議論へ彼女自身が参加するという文字どおりのセミナー形式で 、午前にはまず石割隆喜氏(大阪外国語大学)のメタフィクション論(司会・上野直子氏、コメンテーター・鈴木淑美氏)、午後にはひきつづき栩木玲子氏(法政大学)のウ ィリアム・ヴォルマン論(司会・上岡伸雄氏、コメンテーター・吉岡久美子氏)。それ ぞれマーリーンの理論を批判的に発展させたもので、聞き応えじゅうぶんでした。

小谷
 じつをいうとね、今回の会議の収穫は、ひとつには、久々に越川芳明さんにお会 いできて、サンディエゴに最近できた男性ストリップショーの噂からメキシコの話まで 盛り上がったこと。それともうひとつ、我が国のアメリカ文学会系の若手女性学者の躍 進にほれぼれしたこと。マーリーンも、こんなに女性学者が多くてセクシストがひとり もいない素敵な学会は初めてだとびっくりしてたみたい。フェミニズムはもう前提条件 として当然であるというポストフェミニズム的な見識がかなり色濃く出ていて、会議の 内容も先端的で若さあふれる内容だったと思います。それに教授の好きなバトルが見られたしね(笑)。

 それは何といっても、初日のマーリーンの基調講演を受けて、小谷真理があのアラン・ソーカルによるポストモダニズム批判、通称「ソーカル事件」にケンカを売ったことでしょう(笑)。いわく、クズSF論争とソーカル事件は根っこが同じである、と(笑)。

小谷 売ってない、売ってない(笑)。ソーカルが人文科学者による科学の濫用を指摘したんで、わたしはソーカルがSFを濫用したことを問題にしたかっただけ。

 ここで一応説明しとくと、この事件は1996年、カルチュラル・スタディーズの牙城 とも言える<ソーシャル・テクスト>誌に物理学者アラン・ソーカルの偽論文が掲載され たことに端を発しています。その論文は「境界を侵犯すること−−量子重力の変形解釈学に向けて」というタイトルで、量子重力論という架空の物理理論を駆使してポストモ ダン文化状況を再解釈するというもので、<ソーシャル・テクスト>誌編集部は審査ののち掲載するに至るのですが、その直後に、これがたんにポストモダン用語をパロディ 化しただけの、学術的にはゼロに等しい真っ赤なウソの論文だということを、ほかならぬ著者本人が暴露して、たいへんな論争を巻き起こしてしまった。

小谷 わたしにしてみれば、ソーカルが<ソーシャル・テクスト>誌に投稿した偽論文自体が、サイエンス・フィクションそのものなんです。もともとポストモダン理論や、それを受け継いでいるカルチュラル・スタディーズの主題と方法論のなかでは、かなりSF的な手法や発想が頻繁に使われていて、いや濫用か(笑)、まあそうした構図があの事件で科学者側から顕わにされただけのことでしょう。意識的にせよ無意識的にせよアカデミズムの学者さんたちのだれもがSF的なことをやっちゃってる事態がすでにして、実は マーリーン・バーの指摘するジャンル核分裂なんじゃないかな。

 わたし自身も Para*Doxa や SF Studies など北米の学術誌いくつかの編集顧問団 に名前を連ねてますが、それ以外でもMELUS やUtopian Studies など外部委員に指名して投稿論文査読を依頼してくるところもあるぐらいで、ちゃんとやってるところは石橋を叩いて渡ってますね。慎重に討議を重ね、執筆者にも再三改稿を要求した結果、掲載されるまで四年もかかるなんてところもザラにある。昨今は日本文化を射程にしたものも増えてきてる。ただ、いまはメールでファイルごとやりとりして、即時対応できますから。いちどなんか、アメリカ人の手になるウィリアム・ギブスン論が回ってきたんだけど、どうもピンと来なくてボツにしたら、何とそれがイギリスの主導的批評誌に投稿されてなぜか掲載されてしまった直後、読者からそれがパクリ論文だって暴露されたことが ありました。ホッとしましたよ、その時には。主導的批評誌でさえ、このていたらくだったというわけ。逆にいえば、こういう学会誌における詐欺事件は、頻繁ではないとはいえ、時々起こりうることなんです。編集委員や査読委員に、自分の専門を超えた論文が送られてくることは少なくないし。でも、だったらその雑誌が潰れるかといったらそんなことはない。事件にはあたうかぎり誠実に対処すればそれですむ。しかもアラン・ソーカルの場合、もともと編集部から出された改稿要求にもろくに応じなかったようだし。けっきょくのところ、すべての責任を問われるのは詐欺論文の筆者で、彼ないし彼 女は、たしかに一瞬だけは日の目を見るかもしれないけど、以後二度とこの世界では浮かび上がれない。 小谷さんのコメントに対応して、マーリーン・バー氏は巧みにも、ソーカル事件はSF殺しを詮索する「クズSF論争」ならぬ、文学批評殺しを謀る「クズ文学批評論争」なん じゃないかって言ってましたが、その見解はたぶん正しいですね。

小谷 ソーカルとその支持者が「この三○年のポストモダン批評はみんなクズだ」とでもいいたげな言説を振りかざしているようにも見えましたしね。そうなると、単にアメ リカのアカデミズムの中で戦争が起こっているらしい、まあ一般人とはなんの関係もな いわというふうに片づけるわけにはいかない。クズSF論争を見てきたSFファンとしては 、ソーカル事件には絶対に見逃せない部分があった。

 ほんとうは、こうしたクズ論争のたぐいを支配するシニカル理性そのものが、ポストモダン系特有の、いちばん指弾されてしかるべき側面だったはずなんですけれども。

小谷 だから、マイケル・クライトンが今年出した『タイムライン』を読んで、とってもおもしろかったの。だってこれって、恐竜ならぬ中世人に現代の学者たちを追いかけさせて、絶体絶命の情況に追いつめていく物語でしょう。この小説ってそのまま、ソー カル事件に対するクライトン流の皮肉なのかな、と本気で思ったほどなんです。一貫し て科学者論を展開してきた作家クライトンにとっても、これは興味深い事件だったでしょうから。  
マーリーン・バー氏には、今回初来日ということもあって、こういう話題からこれま での仕事の内容におよぶ対談を<ユリイカ>誌のために行いました。講演原稿邦訳とともに近々、出る予定です。どうぞお楽しみに!  まあでも年寄りのわたしだけではなく、若い研究者の方々もマーリーンと丁々発止とやりあっていて、みなさんかっこよかったですよ。攻めも受けもばっちりキマっていて。

 そんな京都セミナーが無事終わったので、昨日はさっそく、見損ねていた文字どおりの『ミッション・インポッシブル2』(M:I-2)へ。だいぶ興奮されていたようですけど。

小谷 そーりゃトム・クルーズですもん。今回やっと彼の特質がわかった気がしますね。

 昨年の『アイズ・ワイド・シャット』とは打って変わって――

小谷 どうもトム・クルーズは、ライバル役のかっこよさをひきだしてしまう性質があるみたいなんです。ブラピの時もそうだったんだけど、相手の男を自分の世界に引きずりこんでおいて、闘争しつつ引き立て役にまわり、それでも結果的には相手に負けない という、何とも奇妙なセックスアピール持ってる。今回もそういう意味では、相手役のダグレイ・スコットはトクしちゃったんじゃないかなぁ。相手がトムの手口を読みあうところもいいけど、要塞にしのびこんだトムが白い鳩のむこうに幽霊のように浮かび上 がるのもかっこよければ、砂浜の殴り合いとかもーめちゃくちゃいいでしょう。うふふ ふふふふ。

 とにかくクリフハンガーのお約束をしっかり守って、徹底的に楽しませてくれる上出来のハリウッド商品。マーリーン・バーはスーパーマン神話の崩壊を語っていたけど 、『M:I-2』では案外、ふたりの男を翻弄するエスニック系ヒロインにスーパーウーマン神話の可能性があるかもしれない。土壇場で殺人ウイルス「キメラ」を自分に注入しち ゃうところなんか、迫力あったな。そう思って、この女優タンディ・ニュートンの経歴 を見たら、何とジェイムズ・アイヴォリー監督の『パリのジェファソン』(邦題『ある 大統領の情事』)ではジェファソン大統領の愛人である黒人女性奴隷サリー・ヘミング スを快演してたヒトじゃない。
トニ・モリスン原作の映画『ビラヴド』では主演してるし。今世紀最後のファム・ファタールかもしれない。

小谷 そうね。『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』ではチョイ役で、すぐ殺され ちゃった召使い役だったけど、なかなか忘れがたい感じでしたね。ところで教授、宿題だった殊能将之の第二長篇『美濃牛』(講談社ノベルス)、とう とう読了されたそうで。
いかがでしたか。横溝正史をズラしまくる脱構築ミステリです が。

 読み終わりました、やっと。今回のパニカメ通信が何と二ヶ月近くも豪快に遅れまくったのは、ニューヨーク大学大学院映画学専攻の宮尾大輔君やコーネル大学時代の友 人で翻訳家でもあるカズコ・ベアレンズ氏が帰国してたとか、千木良悠子君の新しい舞台「パール・ソース」があったとか、京都セミナーの準備で忙しかったとか、いろいろ 言い訳には不自由しないんですけど(笑)、いちばんの理由は、わたしが宿題を読んでなかったことなんですね。一応わたしも牡牛座だし(笑)、気にはなってたんです。目下、チャールズ・ブロックデン・ブラウンで卒論執筆中のゼミ5年生岐阜出身パチプロ・大塚周作君も「岐阜ミステリの傑作」といってたし。  
でも、前作以上に分厚いのに、どんどん読みやすくなってる。第一作の『ハサミ男』 がおたく的主体のあくまで個人的な成り立ちを語っていたとすれば、第二作であるこの 『美濃牛』では保険金殺人計画と連動する奇跡の泉転じてはリゾート計画の展開とか、土地問題にからませた人造老人の製造とか、果ては男同士の切実なるゲイ・ロマンスか ら中年男と少女ビリオネアとの年齢を超えたロマンスまで、そういった多彩なエピソードがすべて現在的家族の問題へ収束していく。もちろん、それはそうとう変わった家族観ですけれども、ここで思い出すのが、ゲイ作家でありながらレズビアン詩人と結婚生 活を営み一女までもうけていたアメリカを代表する黒人SF作家サミュエル・レイ・ディ レイニーのことなんです。作者の殊能氏のことはかれこれ二十年近く前、十代後半のころから知ってるんですが、彼はディレイニーの未訳作品も原書で耽読するばかりか、ディレイニーメーリングリストをチェックしたりウェブ上で作家の講演の声に聞き惚れたりほどの大ファンなんですね。  
はっきり引用がされてたの、気がつきました?

小谷 ぜんぜん気がつきませんでした。わたし自身は、前半ばりばりの横溝的な世界が、ちょうどまんなかへんにつきささっているあのコール・ポーターのパロディというか脱構築の詩をきっかけに、どんどんズラされていくという不安定なノリが、もーどうしようもなく気持ち悪く感じられたんですね。はっきり言って、横溝世界の気持ちよさは合理的な科学的思考にもとづく論理的な部分にあるので、それを脱構築されたらさわやかな快感が殺がれるのでは、と思うし、ここいらへんに横溝にオマージュをささげたホームズ殊能ならではの、稚気(毒?)が盛り込まれているようで、要するにたいへん振り回されました。

 コール・ポーターのくだりではわたし自身もモデルにされてるようで、いささかくすぐったいのですが、それにしてもホームズ殊能とは?

小谷 それとワトソン小谷は、去年<ユリイカ>誌十二月号(ミステリ・ルネッサンス特 集号)のインタビューに登場したキャラでーす。ちなみに、ディレイニーっていうと、 どのあたりのモティーフなんですか?

 具体的には、『美濃牛』第三章第十七節冒頭で『アインシュタイン交点』(ハヤカ ワ文庫SF)の一節、コンピュータPHAEDRAが語る「まだ迷宮をまちがえてるね、ベイビ ー 。幻影を見たいなら、こちらへ降りておいで」がエピグラフとして採用されてます。  まっとうに読む限り、たぶんこの小説は小谷さんのようにポスト横溝で読むのが絶対 正しいんだと思いますし、また同時に、各章冒頭に置かれた古今東西の引用から成る半 ば衒学的に映るかもしれない――解説の川崎賢子氏いわく「博覧強記」な――エピグラ フ群を見る限り、どれかひとつに影響関係を設定できるわけではない。しかしよくよく 考えると、ここでおもしろいのは、『アインシュタイン交点』そのものが、たんに迷宮 小説というだけでなく、ほんとうに地下の迷宮の中に牛頭の怪物が登場する立派なミノタウロス小説であり、そこではオルフェウスやキリストやビートルズなどさまざまな神 話が引用され掛け合わされ、マルチプレックスな効果 を醸し出している点でしょう。しかもそれらの神話体系は、異星人が人類になるために利用されるんですが、にもかかわらず異星人はそうした鋳型にいごこちの悪さを感じている。そういう設定が、わたしに は本書最大のアンチヒーロー鍬屋和人のあの屈折した運命と重なるような気がしてしか たがなかった――まあ、これ以上明かせないのが、ミステリというジャンルのつらさですけど(笑)。もちろん、このように複数の神話を多文化的に積み上げ絡み合わせていくのはモダニ ズム以後ひろく普及する手段だし、ディレイニーはそれをポストモダニズムの文脈で一 気にアメリカナイズしてみせたにすぎません。ところが、たんに牛を重視して絢爛豪華 な引用の織物を紡ぐんだったら代表的モダニスト作家ヘミングウェイがスペインの闘牛を描写した『日はまた昇る』は欠かせないのに、なぜか出てこない。

小谷 ヘミングウェイは、いまNHK朝のテレビ小説「私の青空」のモチーフのひとつになってますね、『武器よさらば』と『老人と海』が使われてて。

 ところが、ヘミングウェイには言及せずディレイニーに言及する、この姿勢ですね。作者の思い入れはたいへんなものです。それに、『アインシュタイン交点』というのはアインシュタインゲーデルの双曲線が交わるところにひとつのユートピアを見るわけだから、すでに1967年の段階で立派に科学を濫用しつつ文化全般の可能性へメスを入れた傑作思索小説なんですね。ソーカル事件以後、いちばん議論され再評価されるべき作品でしょう。そもそもカルチュラル・スタディーズの巨匠たるダナ・ハラウェイを1986年、すなわち最も初期の段階で真っ向から批判していたのはディレイニーなんですから。  
ディレイニーは『アインシュタイン交点』の複雑きわまる思索小説の中に60年代アメリカを生きる自分自身を刷り込みましたが、殊能将之の『美濃牛』にもメタミステリの中に90年代日本において生きては死に、死んでは生き返る現代人物群像がはっきり見え隠れしている。徹底して論理だけを貫くかのように見える小説なのに、なぜか現在日本 ならではの文化が浮かび上がってくるところが、殊能作品のおもしろいところだと思います。

8/1/2000